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「練心」につながる安岡正篤氏の本の読み方のポイント




おはようございます、一龍(@ichiryuu)です。

社会人にとって読書こそが大人の教養を磨き、人生をいかに生きるかを考えるきっかけをくれる王道といえます。
しかしそれだけに読書に関しては、「いかに読むか、何を読むか」というテーマは喧々諤々の議論がなされてきました。
なかなか答えが出ないテーマですよね。

今日は、安岡正篤氏の言葉を集めた『安岡正篤 運命を思いどおりに変える言葉』 から、読書に関する部分をピックアップしてみました。
東洋哲学の巨人が教える「練心」につながる本の読み方とはいかなるものか、早速紹介していきます。


 

「練心」につながる安岡正篤氏の本の読み方のポイント



★古典を学ぶ意味とは


後ろを向いて前を見ておる。
過去を通して未来を考えておる。

まずは古典を学ぶ意味から。
安岡氏が心酔した儒教の祖、孔子にとって、周の武王の弟周公旦が人間的にも政治的にも理想でした。
 
 孔子を祖とする儒家にとって、周公による建国の理想は過去に実現したものでした。この検証済みの理想を学ぶことは古典を学ぶことであり、「後ろを向く」ことでした。そして、この理想をいまの世で実現しようと志すことが「前を見る」ことです。安岡の「後ろを向いて前を見ておる。過去を通して未来を考えておる」とは、この意味です。儒家にとって古典を読むとは聖人や賢者の理想に共鳴して大いなる志を抱くことだったのです。

先哲の思想を未来に生かす、古典を学ぶという意義はまさにこの一点に凝縮されるものなのです。


★本物の読書とは


つまらない書物を読んだって
読書とは言いません。
古聖先賢の書物を読むことを
読書というのであります。


 わが国でも江戸時代においては『論語』や『孟子』などの四書や五経を読むことが学問であり、「学問=読書」でした。もちろん当時においても仮名草紙や草双紙といった通俗的な本はありました。しかし、こうした本を読むのは学問ではなく、読書とはいえませんでした。安岡の「古聖先賢の書物を読むことを読書と言うのであります」とは、このような伝統を引く言葉です。この伝統は現在の「人間学」へと流れ、中国やわが国の古典を学んでみずからの生き方を見つめようという動きになっています。

けっして『論語』などの古聖先賢の書物以外はすべて”つまらない”本だとは思いませんし、どんな本でも学ぶ点はあると僕は思っています。
が、やはりレベルの高低、深い浅いはありますよね。
それに社会人は読書にかけられる時間も限られています。
できるだけ読書意義の質の濃度を上げようと思えば、古典を読むということが効率的だということはいえると思います。



★読書の楽しみ方とは


およそ煩わしく
面白からぬことの多い人生において、
夜の一時を独り静かに偉人の伝記や
好きな書を読み耽るほど楽しいことはない。

読書人階級である士大夫(科挙官僚・地主・文人三者を兼ね備えた指導者層)は、たとえ隠遁生活をしているときでも、静かに学問をしつつ、いつでも政治の表舞台に立つ準備をしていました。
「治に居て乱を忘れず」といった感じでしょうか。

安岡は「独り静かに偉人の伝記や好きな書を読み耽るほど楽しいことはない。その時こそ生き返るような感じが身心に満ちてくる」といいます。

こういった士大夫の隠遁生活のような読書は安岡氏の理想の読書スタイルだったのでしょう。

さて、現代に生きる私達には「乱」に備える必要はありません。
ですが、忙しい日常の中で、短時間でも静かに古の偉人と向き合うような読書の一時を持つことは、とても意義深いもの。
極上の時間といえます。
できればこういった時間を確保したいですよね。


★なぜ素読が必要なのか


素読の効用というものは絶大であります。
ことに子供ほど良い。
必ずしもその意味が
よく分からなくともよろしいのです。
これを従来の教育家かは
忘れてきたというよりは誤って考えてきた。
意味をよく知らなければ
何もならないことのように考えてきた。

素読とは時代劇の武士の子供の教育や寺子屋などで子どもたちが音読しているシーンがまさにそれ。
解説によると

 江戸時代に藩校や学問塾で学ばれた経書儒家経典)は、①素読(付け読みと温習)、②講義(講究と講釈)、③会業(読書会と共同作業による研究)という読書の三段階に分かれていたようです。


本書ではノーベル賞受賞者湯川秀樹氏が子供の頃、漢籍素読したエピソードが紹介されています。

祖父のもとで湯川は五、六歳のころに素読を始めました。祖父は一尺を超える字突き棒の先で一字一字を追いながら四書のひとつ『大学』を読みます。子どもの湯川はオウム返しに復唱していくのです。これを付け読みといいます。

湯川氏はこの素読が「その後の読書を容易にしてくれた」と言っています。

ではこの素読はいつごろはじめるのがいいのでしょう。

素読を始める適齢として安岡は「子供ほど良い」といいます。江戸時代では普通、記憶力が旺盛な年齢ーー満年齢で六、七歳から素読を始めたようです。

6、7歳といえば小学校低学年の年齢。
そんな小さなうちから読んでも内容が理解できなくて意味が無いと思われるかもしれませんが、湯川氏のエピソードから分かるように、読書の習慣も含めて「読書の基礎」を形成するのに効果があるのだと思います。
もし、小さいお子さんがいるなら実践してみるといいかもしれません。



★なぜ「素読」は効果があるのか


仏家に看経、読誦、誦経があるように、
儒家にはまた素読ということがある。
これは性霊の独語、魂が独り言をいうように、
すなわち書物を読む時には
わが魂が故人と語るように、
あるいは進んで故人の魂が我に向かって囁くように、
この書の中から声が発するように(中略)読むというのが素読の精神です。

さて、大人の読書のコツとはどういったものなのでしょう。

安岡は素読を通して、次のように古の聖賢と魂の交流をすることをすすめています。
・わが魂が古の聖人や賢者と語るように素読する
・古の聖人や賢者の魂が自分に囁いてくるように素読する
たとえば『論語』には「子曰く・・・」と孔子の言葉が記録されています。これを孔子がわが魂に囁いてくるように音読するのです。「曰く」は「いわく」と読みますが、孔子にかぎっては「のたまわく」と敬語で読むのが魂の交流にはいいでしょう。

よく、哲学書や偉人の伝記は著者と会話するように読むことを読書術ではすすめていますが、まさにその方法。
そして一つの工夫として、「のたまわく」と特別な敬意を払いつつ読むことが、読書で先哲との魂レベルでの交流ができるわけです。
そこまでしなくてもと思われるかもしれませんが、実際に先生が目の前にいたら敬語を使って会話しますよね。

更にもうワンランク上の読書方法として、

テキストを見ずに暗記したものを読んで書く

という方法も本書では紹介されています。 


★初心者でもわからない本を読むべきか


大人は祇園精舎とはインドのどこにあるのだ、
諸行無常とはこういうことである
というようなことは分かるが、
もはや世間の生存競争が何かに
摺れっからしてしまって、
もうその耳に鐘の音そのものは聞こえない。
子供は理屈は分からないが、その鐘の音が聞こえる。

先程少し触れましたが「素読」に関して、

子どもにはまだ難しくてわからない本を、内容も理解できないのに音読する意味があるのか?

という疑問がついて回ります。

これに関して安岡氏は 

「分からないでもよろしい、心静かに素読していると分かるようになる」といいます。その場合の「分かる」とは子どもならではの感受性で何かを感じとるということです。これが大切なのです。
    
意味はわからなくても、子どもたちには大人には感じない感覚、見えない風景が分かるのだと思います。

そして、大人にとって難解な本を読むことも、本質的には同じなのではないでしょうか。
難解な哲学書でも、読み進めていくうちにな、最初はまったく理解できなくても徐々になにかを”感じる”ことができるのではないでしょうか。

たとえ理解できなくても、読むことは無駄ではないのです。



★本物の学びとは


先生から講義を聴いている間は耳学問で、
この間はどうしても本物になりません。
独立して自分で研究して
自分で講義をしてみるということに
ならなければ――
学問が自治的にならなければ――
どうしても本物にならない。

江戸時代の学問は次のようなステップで進んでいきました。

江戸時代の学問は、①素読・・・経書を暗唱する→ ② 講義・・・経書を理解する→ ③会業・・・研究を深めるという流れでした。こうした一連の学習ステップの最初に素読という体で覚える学習が置かれていたのでした。また、① ②では個別指導が中心でした。現代のようなマス教育でなかったことは特徴的です。

そして、③の段階が安岡氏のいう学問が自治的になる段階。

「会業」は、学力が同じくらいの十人前後の学生が集って共同学習を行います。具体的な進め方は輪番制で当番にあたった人が発表し、その後、質疑と討論を行うというものでした。

これ、ピンとくる人がいると思いますが、大学のゼミと同じような形式なのですね。
守破離」でいうところの「離」の段階。
ここまできてはじめて、学問が本物、つまり自分のものになるのです。
 


★胆力がつく読書とは


読んで快心のところに至った時はもちろん、
わが欠点を深く突かれた時も、
やがて喜びはおのずから心に湧く。
そして更に新たな勇気が心身に
あふれてくるのを覚える。(中略)
実に読書は練心でなければならぬ。

安岡氏は読書は「練心」でなければならないといいます。
では練心とはどんな読書体験から得られるものなのでしょう。 

 読むことが、わが身に直結した読書をするとき、心を練ることができます。反対に知識を知識として、わが身を介在せずに追求する抽象的な読書では心を練ることができません。心を練ることなしに胆力は据わりません。
 中国古典を繙くとわかりますが、多くが具体的です。人間が描かれています。偉人の人となりに発憤し、聖賢の高い境涯に憧れ、みずからを省みて恥じることができるのは具体的だからです。やがては心から熱いものが湧いてきます。これが練心です。中国やわが国の先哲の書を読むとは、このような読書することです。


「わが身に直結」するとは、今置かれている自分の境遇や、自分が抱えている課題に、聖賢たちの思想や経験がマッチした瞬間、激しく共鳴することです。

おそらく私達が抱える問題などというものは、長い歴史の中で誰かがすでに経験していることばかりでしょう。

必ず同じような体験をしている先哲がいるです。
しかもそれは現代とは比べ物にならない過酷な春秋戦国時代を生き抜いた人たち。
その言葉と出逢った時、自分の悩みなどはちっぽけなことだと気づき、恥じることになるかもしれません。

それもまた「練心」につながるのだと思います。

知識だけを吸収しようとして読む単なるハウツー本では、その体験はできないのです。



感想


いかがだったでしょうか。

安岡氏の説く読書スタイルは中国古典を読むことがベースとなっているため、ある意味「偏っている」ということは否めません。

また、僕は最近のブラック企業や過労死などの労働問題、また日本特有の組織の閉塞感など、様々な場面で「儒教の弊害」を感じることが多くあるため、

そもそも儒教を学ぶことがそんなに意義深いのか?
中国の古典を崇め奉るスタンスはいかがなものなのか?

といった考えを持っています。

したがって、今回のエントリーで紹介した安岡氏の読書スタイルに関しては、読む対象を「中国古典」に限らず、西洋哲学でも経済学書でも、自分のライフスタイルに合ったもの、自分の専門分野に役立つものに置き換えていただけたらと思います。

何を読むかを除いて、安岡氏の読書スタイルのキモとなるのは、

著者との対話

でしょう。

ニーチェでも、コトラーでも、あるいは村上春樹でも、「著者との対話」を意識して読むと、もう1段階深い読書体験ができるのではないでしょうか。

読書を単なる知識の収集に終わらせないために、今後の皆様の読書スタイルに参考となることがあったなら幸いです。





本書はイースト・プレス様よりご恵贈いただきました。
ありがとうございました。


目次


第一部 人物を創る
 第一章 品格をつくる
 第二章 新しい自分に生まれ変わる
 第三章 こころを磨く
 第四章 人とのつきあい方
第二部 活学のすすめ
 第五章 人間学を学ぶ
 第六章 ものの見方、考え方
 第七章 運命を変える
 第八章 人を動かす、世の中を動かす
第三部 古典に学ぶ
 第九章 本の読み方
 第十章 儒学に学ぶ
 第十一章 老荘に学ぶ
 第十二章 日本の先哲に学ぶ



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