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佐々木俊尚『21世紀の自由論 「優しいリアリズム」の時代へ 』NHK出版新書【本の紹介】ネットワーク共同体が生み出す「非自由」という新しい価値観

おはようございます、一龍です。
価値観の変化や時代の過渡期というのはなんとなく感じている方が多いと思います。
しかし、一体どんな世界に向かっているのかはよくわかりませんよね。

今日ご紹介する『21世紀の自由論―「優しいリアリズム」の時代へ』 では、フリージャーナリストの佐々木俊尚氏が一つの方向性を示唆してくれています。
佐々木氏が説く「優しいリアリズム」の時代とは、一体どんな社会なのでしょうか。
そのポイントをご紹介します。

『21世紀の自由論 「優しいリアリズム」の時代へ 』より、「優しいリアリズム」のポイント

★「普遍的なもの」が消滅した社会

佐々木俊尚氏は

 ヨーロッパが形成してきた「普遍的なもの」は消滅した。理想的な個人に向かって、誰もが努力するというあり方が意味を持たなくなってきている。

と説きます。

ヨーロッパが形成してきた「普遍的なもの」とは、近代においては「自由」「平等」とか、国民国家といったものです。

しかし、こういった価値観は経済構造の変化や情報ネットワークの発達によって消滅してしまいました。

するとどうなっていくのか?
日本はどうするべきなのか?

 「普遍的なもの」が消滅した社会では、もはや統一的な理念や理想は存在しない。今の国際秩序の中に残っているのは、近代ヨーロッパの理想の残りかすでしかない。
 この残滓もいずれは消滅し、その先に新たな秩序がやってくるだろう。それは前にも書いたように、国民国家のパワーゲームではなく、さまざまな国や企業、組織にバラバラに権力が分散される世界かもしれないし、グローバル企業の環境管理型の権力構造が巧みに構築された「新しい中世」のようなシステムかもしれない。しかしいずれにしても、そうした新秩序はすぐにはやってこない。
 そこに至るまでには長い過渡期、長い移行期がある。われわれに必要なのは、そのあいだの舵取りをいかにうまく進め、「ポスト国民国家時代」に向けて日本をどう軟着陸させていくかということだ。

最初のポイントは新しい社会秩序ができるまでかなりの移行期が続くことと、その間どう生きていくのか、どう国家を運営していくのかという点にありそうです。

★必要なのはリアリズム

ではよって立つところの「普遍的なもの」がない移行期には何が必要なのか、何を優先課題としていけばいいのか

著者は言います。

 普遍的な理念が崩壊している中では、「理念として正しいかどうか」ということを前提にした議論は意味がない。最上位に求めるべきは理念ではなく、生存や豊かさの維持というような具体的な目標である。

つまり

必要なのは、「正しさ」ではなく状況分析であり、それにもとづいたリアリズム

なのです。

★移行期に求められるのは「リーンな戦略」

では具体的にはどのような戦略が有効なのでしょう。

著者はビジネス界にヒントを見出します。

 ビジネスの世界では、「リーン」ということばが使われるようになっている。「細くひきしまった」というような意味の英語だが、長期的で巨大な計画ではなく、機動力を活かして軽快に事業を進めていくような考え方をリーンと呼んでいる。まず構想を考え、それをもとに事業の計画を立て、結果から学びを得ながら迅速に計画を組み直していく。うまくいかなかったらすぐに方向転換か、我慢しながら維持するかという戦略を練る。

ビジネス書が好きな方はこの「リーン」という言葉はご存知だと思います。

先が見えない時代だから、小回りのきく集団でPDCAサイクルを高速回転して進んでいく。

国家も個人もそういった戦略が必要になると思われます。
個人のレベルで言えば、人生設計とか、働き方が劇的に変わっていくこととなるでしょう。

★グレーの領域をマネジメントする

さて、「普遍的なもの」がなくなった世界では白黒発揮つける判断基準がなくなるため、グレーゾーンが広がるだろうし、グレーゾーンの存在感が増すことは間違いないでしょう。

そんな世の中で大切なのは

 リアリズムを実現するためには、外交でも安全保障でも、そして私たち社会の中の出来事に対しても、ゼロリスクではなく、白黒つけたがるのでもなく、
「ものごとはたいていグレーであり、グレーであることをマネジメントするのが大切である」
 という非ゼロリスク的な考え方を社会として集約していかなければならない。グレーであることによる「優しさ」を実現していかなければならない。

「多様性」という言葉とも通じると思いますが、意見の対立はあっていい、様々な思考の立場もあっていい、ただし、それぞれに存在価値を認める優しさか必要になるということです。

 正義をうったえて戦っている者達も左右の両極端にいるが、その両極端に与することは何の利益ももたらさない。両極端に目を奪われることなく、その間の中間領域のグレーの部分を引き受けて、グレーをマネジメントすること。その際、人々の感情や不安、喜びを決して忘れないこと。これこそが優しいリアリズムである。正義を求めるのではなく、マネジメントによるバランスで情とリアルを求めることが、いま私たちの社会に求められている。

著者はマネジメントという言葉を使っていますが、どの立場の人も認められる世の中であることが移行期には必要になってくるということです。

★ネットワーク共同体

ここでもう一つ注目して欲しいのは情報ネットワークの発達という現実です。
先述のグレーゾーンは、昔なら社会の表舞台に登場しなかった人たちです。

ところが現代は誰もが情報を発信することができ、グレーゾーンの人たちでも、マイノリティの人たちでも左右両極で活発に発信している人と何ら変わらず情報発信ができ、存在感をアピールすることができる時代になったのです。

その結果、かつての閉鎖的なコミュニティではなく「ネットワーク共同体」が誕生すると著者は言います。

ネットワーク共同体とは、

 ネットワーク共同体には、中心がない。内側と外側を分ける壁もない。歴史や伝統の幻想をまとわず、「いまここにあるもの」として同時的につねに偏在している。そして行動を起こす人は、必ず巻き込まれ、全員が当事者になる。行動も発言も何もしなければ、自動的に「巻き込み」から外れ、非当事者化していく。
 人と人の関係は固定化されず、つねに組み替えられる。中心はないから、線上には縦横の権力構造は生まれにくい。権力を持っているのは、縦横ではなく「高さ」で下にあるグローバル基盤である。網の目の平面には権力は生まれないのだ。

非常に広大で、ゆるやかなつながりで、なおかつ力強いネットワーク社会。

そのありかたは、

 ネットワーク共同体は、国ごとや地域ごと、村ごとに存在するのではなく、世界中を覆う共同体である。それはフェイスブックのような現在のプラットフォームに支えられるのかもしれないし、まだ見ぬ新しいプラットフォームが支配するのかもしれない。

と、まだわかりませんが、はっきり予測できるのは

 世界全体としては情報通信を基盤とした新しい人間社会、新しいメディア空間という構造へと押し出されていくのは間違いなく、これが世界全体を覆うのは目前である。

ということです。

★上下移動から水平移動へ

ネットワーク共同体の特徴は

ネットワーク共同体の網の目は、固定化されたピラミッド構造ではなく、流動的なアメーバのようなものである。

そして、

 リベラリズムが終焉を迎えた後のネットワーク共同体では、高位に理想はない。そのかわりに縦横の平面が無限に広がり、その中を人々は流動する。かつての農村や企業社会のような古い形式の共同体はもはや存在しないから、そういう共同体に自分を縛り付けておくことはできない。高みを目指して成長し、立派なお金持ちになることをめざすのではなく、水平に移動し続ける世界である。
 上にあがることは困難だが、下にさがる心配は少なく、縦横にはつねに移動する世界。
 つまり自分が今いる場所は決して固定されず、いつ流動するのかもわからない。望んで流動することも可能だが、望まなくても気づいていれば流動している可能性もある。網の目によってつねに社会とは接続されているが、居場所は点々と変わっていくかもしれないのだ。ここでは「安定」と「移動」が矛盾なく同居している。そういう三次元の世界である。

非常に流動的な社会だという印象をもちます。
そして同時に「立派なお金持ちになること」に価値がを見いださなくなるということに衝撃を受けます。

★「非自由」

そして一番注目したいのは、いままでの自由とは違った自由が存在するようだということです。

それは

 ネットワーク共同体という三次元の空間では、普遍の理想が消滅し、上への自由は存在しない。しかしネットワーク化された世界では、ネットワークこそが社会への接続を保証するものとなり、下に落ちる心配は減り、下への自由も薄れる。従来の上下の自由は意味をなさなくなるのだ。
 そのかわりにネットワーク共同体では、縦横の自由がやってくる。これは従来の上下の自由とはまったく異なる、漂白的な自由である。望むと望まざるとにかかわらず、縦横の移動を強制される自由である。近代の自由ではないが、別の自由ではあるという「非自由」なのだ。この縦横の自由の世界では、私たちは常に誰かと繋がり続けるからだ。どちらかといえば、安楽な宿命として私たちはそれを甘んじて受け入れるようになるだろう。

私も含めて、「自由に働きたい」「自分らしく生きたい」といった人たちは大勢います。

しかし、古い組織の束縛はなくなっても、また新たなつながりにより縛られる。
しかもそれは非常に流動的だというのです。

だれもが存在を認められ、セーフティではあるが、これまでとは違った「非自由」な社会。
これがわれわれが向かう未来の社会のあり方のようです。

『21世紀の自由論 「優しいリアリズム」の時代へ 』まとめと感想

結局人間が社会的な生き物であるかぎり、何かに属し、真の自由は存在しないのでしょうが、われわれはこの価値観の変化についていけるのでしょうか?

佐々木氏がいうように、新しい社会秩序が完成してしまって、その価値観にどっぷりと浸かって成長する未来の子どもたちは、その「非自由」を甘んじて受け入れるようになるのでしょう。

けれど

「自由ではないが、生存は保証されている」

という「優しいリアリズム」と「ネットワーク共同体」というものに非常に違和感を感じてしまうのは、僕が「普遍的なもの」に取りつかれているからなのでしょうか。

しかしきっと、古い価値観を捨てられない人間もいつの間にか包摂して、新しい社会が誕生することと思います。

好むと好まざるとにかかわらず、テクノロジーの進歩は社会を変えていきます。
それは産業革命など人類の歴史が証明しています。

僕が取りつかれている近代ヨーロッパの「普遍的なもの」もたかだか300年ぐらいの歴史しかありません。

このまま情報ネットワーク技術が発達し、地球上のすべての人に端末が行き渡り、だれもがつながったコミュニティが誕生したとき、人類の新たな歴史が始まるのは間違いないでしょう。

その一つの方向性として本書の提示する「優しいリアリズム」の時代というのは、われわれが実現すべき一つのモデルなのだと思います。

『21世紀の自由論 「優しいリアリズム」の時代へ 』目次

まえがき
第1章 日本でいま何が起きているのか
第2章 ヨーロッパの普遍主義は終わった
第3章 移行期をどう生きるか
おわりに

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