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「戦後」は決して特別に分断された時代ではない。それは「戦中」の延長線上に存在する。

おはようございます、一龍です。
戦後70年という区切りの年にあたり、総理談話が注目され、戦争の特番がかなり放送されています。

そんな中、今日ご紹介するのは古谷経衡さんの『戦後イデオロギーは日本人を幸せにしたか』です。

本来本書は戦前戦中と戦後とは時代は断絶しているわけではない。
「戦後」というイメージは後から作られたものであるとして、それを裏付ける例を上げている本ですが、その中に「えっそうだったの?」と驚く内容のものが多数ありました。

どうやら僕らはかなり作られた「戦後」のイメージを刷り込まれているようです。

今日は戦中戦後のイメージを覆された例をいくつかピックアップしました。

 

連続する「戦中」「戦後」のポイント

 

★玉音放送直後の日本人は冷静を保っていた

玉音放送直後、戦前から文士として活躍していた作家の高見順の<8・15>の日記には玉音放送直後の東京の人々の様子に関して次のように書かれている。

 新橋の歩廊に憲兵が出ていた。改札口にも立っている。しかし民衆の雰囲気は極めて穏やかなものだった。平成である。昂奮しているものは一人も見かけない。(中略)「戦争終結の聖断・大詔渙発される」新聞売り場ではどこもえんえんたる行列だ。その行列自体はなにか昂奮を示していたが、昂奮した言動を示す者は一人もいない。黙々としている。兵隊や将校も、黙々として新聞を買っている。

慟哭とか憤怒とかいった、大衆の激情の発露は存在しない。
先の大戦のドキュメンタリー番組などで必ずと言っていいほど流される「皇居前で泣き崩れる人たち」の映像があるが、

 よく記録フィルムで使われる<8・15>の玉音放送を前に皇居広場で泣き崩れる群衆の姿とは、福島県から来た女子勤労奉仕隊が偶然その場所に居合わせたものであり、日本国民がわらわらと皇居に集まってきて泣き崩れていた者ではないとする見解があるが、これが真なりだろうと思う。本当にショックを受けた人間は簡単には泣けない。社会経験のない、感受性の高い未熟な女学生だったからこそ、そのショックを真に受けて慟哭したのだろう。それは日本人のごく一部の姿であって、高見の示すとおり、ほとんどの日本人は冷静を保っていたのである。

著者は言う

 <8・15>にショックを受け、慟哭した人々は、まだしも精神に余裕のある人々であって、明日の生活の再建や、よしんばいまの生活の意地を第一とする大多数の日本人にとって「<8・15>とはなんだったのか」をじっくり俯瞰できるようになるのは<戦後>もだいぶ経ってからの話である。時間感覚とは往々にしてそのようなものだ。
 つまり私たちの時間感覚とは、ある特定の日を境目に断絶しているのはなく、その「特定の日」が彼方に過ぎてからようやく補強・形成されるものにすぎないのである。

なにか、<戦後>という時代を、<戦前・戦中> と切り離し、連続性のないまったく違った質の別の時代のように語ることがあり、その境目は「玉音放送」のように語られるフシがあるが、そんなことはないのだ。

もしその感覚があるとしたら、それは後から作られた感覚だと著者は言うのである。

★「終戦」の象徴としてのヒロシマ、復興は”その日”から始まった

玉音放送の時の皇居前の映像と同じく、戦争番組では必ず焼け野原になった町の映像が登場する。
ああいった映像は、戦後の復旧復興は終戦後にスタートしたと想像させがちだ。

著者も

 大空襲にあった東京、名古屋、大阪など当時の日本の大都市の写真にしてもそうだ。すべてが焼きつくされ、灰燼に帰している。人々の生活の息づかいなどまるで感じさせない「死の世界」と形容してもいい。敗戦による徹底的な打撃を受けてしばらくは、当時の日本人はこの悲惨で絶望的な状況の中で最低限の水を飲み、最低限のコメを食べて、本格的な復旧と復興は何ヶ月も経ってから、少なくとも敗戦の翌年の1946年からようよう徐々に行われてきたのだろう。そう想像していた。

という。
とくに広島のように原子爆弾によって一瞬で壊滅させられた街では、すぐに復旧復興が始まったとは想像しにくい。

ところが現実にはそうではないという。

 当時、広島市には本土決戦に備えて陸軍の指揮系統が再編成され、米軍が本土に上陸してきた際に中央との連絡手段が寸断されても行動できるように独立した司令部(第二総軍)が置かれ、陸軍の畑俊六元帥が司令官となった。

そして、被爆当日、いち早く救援に駆けつけたのは

 被災当日、猛火を上げる広島に最初に外部から公的に入市したのは陸軍暁部隊(陸軍船舶兵)の人々であった。

 

 爆心から4キロ以上の距離があり、ガラスが割れるなどの程度で比較的被害が軽微であった市南部の宇品の暁部隊が広島救援の第一陣として負傷者収容をはじめとして獅子奮迅、八面六臂の大活躍をする。

この暁隊の元隊員に著者がインタビューした時、

「広島の復興は戦後のいつから始まったのですか?」

と尋ねた著者に対し、

「復興は戦後からだなんて、そんなのとんでもない。広島の復興は被爆のその日から始まったのです」

と元隊員は答えている。

1945年8月6日、燃えさかる広島に突入した暁部隊の兵士たちは負傷者の救援はもちろんのこと、後続救援部隊の進出に備えて、まず原爆の熱線で燃え上がり、爆風で吹き飛び、道路網を寸断した家屋の瓦礫を除去することを第一目標にした。

 

暁部隊はまさに8月6日、被爆のその日から広島の「復興」に向かって動き出していたのだ。

当然と言えば当然なのだが、原爆を投下された広島、長崎はもちろんのこと、空襲で焼け野原になった東京や大阪にも生存者がいて、生きているのである。

その生き残った人たちにとって、戦前も終戦も戦後もないし、時代の切れ目などないのである。

 「焼け野原からの出発」とか「ゼロからのスタート」などという言葉がある。いずれも<戦後日本>のスタートを形容した言葉だ。多くの人が<8・15>からいまの日本が始まったのだと勝手に思い込み、<8・15>を歴史の境目と見なしている。
 しかし、それは私たちのようなずっと後世の人間が勝手に<戦後>という時代区分の中のイメージで作った幻想であって、当時の人々には<戦後>も何もあまり関係がないのではないか。
 繰り返すが、生きるための戦いは、その悲劇の、その瞬間から、広島、長崎、東京、大阪、名古屋の別なく、<戦後>という時代区分に全く関係なく開始されていたのだ。

★「貧しかった戦中」の嘘

 

日本の農村は戦争に敗れてもなお健全であった。
もちろん、「徴兵」によって農家の成年男子が出征しており、戦死者も数多くいた。

しかし、農村は直接の戦災を受けておらず、無傷で終戦を迎えたのだ。

 ともあれ、直接の戦災を受けずにすんだ日本の農村が残した食糧が戦後の日本人の胃袋を満たした。一説には1945年の未曾有の自然凶作と相まって「最大400万人が餓死する」とされた終戦直後にあっても、実際には闇米の購入を「違法」として頑なに拒否して餓死した山口良忠判事のような事例が当時をもってして「奇人・変人」とされたように、大規模な餓死などは起こらないですんだ。
 これはアメリカからの緊急食糧購入などが一部奏功したものだったが、結局のところ、戦争中に日本の農村が温存されたことが最大の要因である。

さすがに肉類なとは食べられなかったようだが、米とイモだけはなんとか食べられる状況で、餓死者の発生は起こらなかったのだ。

 「敗戦で全土が焦土と化した」かに見える日本は、こと農村においては無傷であり、その農村部の生産力こそが<戦前>が<戦後>に接続する日本復活の原点とみなしていいのであり、したがって<戦後>の「ゼロからの復活」というのは適当な表現ではない。戦争を無傷で生き残った過半数の農村地帯こそが引き続き日本再生と躍動に資した役割は、あまりにも大きいのである。

★「敗戦で国富の大半を失った」の嘘

 

 これを見ると、日本は先の大戦で、すべての国富のうち、その4分の1を失ったことになるが、逆説的に言えば、4分の3は残存していると見なすことができ、その水準はおおむね1935年のそれであった。

 簡単に言えば、日本は1935年から1944年までの拡大分が戦争最後の1年、つまり戦争末期の大空襲であらかた吹き飛び、日本の敗戦時の国富は終戦時点の10年前である1935年の水準に逆戻りしたと考えればわかりやすい。
 よって、「日本は敗戦でゼロからのスタート」を余儀なくされたのではなく、「敗戦により、おおむね1935年の国富水準からスタート」と言い換えることができるのだ。

1935年のレベルといえば、言うまでもなくアジアの中ではトップである。

「ゼロからのスタート」とは程遠い実態である。

★誤解だらけの「本土空襲」の真実

日本は「焦土と化した」わけではない。
以下のように沖縄以外の本土空襲と非戦災都市の状況を著者はまとめている。

沖縄を除く日本本土の空襲と非戦災都市の状況をまとめると次のようになる。

1 日本に対する空襲のうち、東京、大阪、兵庫の三地域の被害額がその大半を占める。

2 さらに日本本土空襲では、航空機生産拠点であった東海地域、山陽地域、四国地域、九州地域の都市部では全県・全市的被害が甚大であったが、東京、横浜、川崎以外の首都圏、また大阪、神戸、堺以外の関西地域ではムラがあり、それらの近郊の中小都市の無傷は復興の原動力となった。つまり日本の空襲被害は「点と点」の被害であって、その中間に位置していた郡部=農村の「面」は無傷で残ったことを物語っている。

3 とくに長野の温存と工場疎開は戦後のこの地域における精密機械工場の誕生に密接に関係している。

4 北海道と東北の空襲被害は局所的には大きくても、西日本と比較して軽微であった。

5 しかし、こういった被害ですらも日本の都市人口2700万人の一部に過ぎず、大都市とい「点と点」の間に広がる広域な「面」である、郡部に住む約4500万人は直接の空襲被害を受けずに温存された。これが戦後復興に大きく貢献した。

6 これらの日本本土空襲による被害は日本の国富を1935年水準に戻したにすぎず、つまりおおむね1935年から1945年までの10年間に拡大した財を吹き飛ばした。よって戦後の出発は「ゼロから」ではなく、1935年の国富残存水準からの再起となった。

「焼け野原」「ゼロかのスタート」というのは都市に限ったことである。

★「全滅」したドイツ、500万将兵を残していた日本

軍事面から見ても「ゼロからのスタート」というのはウソであるという。

終戦時に日本本土に約200万人強、日本本土以外において実に300万人以上の将兵が残存している状態であった。海上戦力のほぼ全てを喪失した海軍とはだいぶ状況が異なっていたのが日本陸軍であった。

武器弾薬はともかく、500万人以上の将兵がまだ存在していたのだ。
この人達が戦後復興の貴重な労働力となっていくのだが、それはともかく、この状況は他の枢軸国、特にドイツとはまったく違っている。

 日本とドイツが違ったのは、ドイツが書類上も、また実際のうえでも、その地上戦力(海上戦力は日本以上に、すでに1943年12月のドイツ戦艦シャルンホルストの撃沈によって全滅であった)をほぼすべて消耗し尽くしていたことに対し、日本は未だ終戦の段階で約500万人の将兵を有していたことにあった。

これら500万将兵が残存していたことや、中国大陸では戦争末期まで陸軍が戦線を維持できていたことから、「米英には負けたが支那(中国)には勝った」という歪な「不完全な敗戦」観が誕生する。

いずれにしても、この500万将兵の存在は非常に大きな影響を与えたようで、戦後のGHQの占領政策にも多大な影響を与えている。

例えばドイツは連合国によって分割され直接統治されたのに対して、日本はアメリカ一国だけが占領統治し、しかも間接統治だったことからもうかがえる。

 また、「軍事的に不完全な敗戦」が象徴するように、東西から挟撃されて完膚なきまでに消滅したドイツの陸上戦力とは違って、終戦当時500万人以上存在していた日本陸軍の将兵の存在(および彼らの日本本土への復員)は連合国にとっても無視できない軍事的存在であり、よって寡兵として進駐する連合国が直接軍政を敷くより、反乱の恐れのない間接統治のほうがリスクが少ないことから、ドイツとは異なる方針に転換した

また、最高責任者である天皇への戦争責任の追及も、ウヤムヤにされたがそれは

 これは当時、日本国民の天皇に対する忠誠心があまりにも激烈であったことと、先に挙げた「軍事的に不完全な敗戦」を担保として、天皇を裁判にかけて「天皇制」を強引に廃止すれば、500万人の残存日本陸軍が不完全なる武装蜂起に応じず、ゲリラ戦を展開して徹底抗戦するおそれがあるという軍事的懸念を念頭に置いたものであった。

こうしたことから、「ナチス・ドイツの徹底否定」から戦後の国家形成がスタートするドイツとは違って、日本は戦前と戦中が部分的に継続されているといえるだろう。

感想とまとめ

いかがだったでしょうか。
敗戦後の日本のイメージが大きく変わったのではないでしょうか。

実際食糧に関しては、我が家はコメ農家だったので飢えることはなかったし、瀬戸内海も比較的近かったので瀬戸内の魚を行商人が毎日売りに来ていたと終戦時に4歳だった父が言っておりました。

もちろん肉はかなり贅沢品で、食べることはできなかったそうですが、米と芋で十分お腹いっぱいになっていたそうです。

空襲の被害も、高松空襲に向かうB29の大編隊が我が家の真上を通って行ったと言っていましたが、爆弾の一発も落ちてくることはなく、遠く高松の待ちが炎上して空が明るくなっていたのを観ていた記憶があるとのことでした。

日本全体が焼け野原になり、日本人全員が飢えていたというのは、生産力を持たない都市部のイメージなのです。

さて、今回は触れなかったのですが、本書で注目して欲しい内容が後半に登場します。
それは

「ひとりも殺していない平和国家」という欺瞞

という章です。

日本は平和憲法を掲げてからも、事実上戦争協力しているのです。
なぜ「後方支援」を戦争と切り離して議論できるのか?私は不思議でなりません。

安保法案が審議されている中、少しは現実の歴史を国会議員の皆さんは見て欲しいですね。

◆まとめ

 

・「戦後」という時代を特別に区別するのはおかしい。人々の生活の営みは連綿として続いていて、切れ目はない。

・日本の戦後は「ゼロからのスタート」ではなく、1935年レベルからのスタートだった。

本書はイースト・プレス、畑様から献本していただきました。
ありがとうございました。

目次

はじめに 日本人にとって<戦後>とはなんだったのか
第1章 幻想としての<戦後>
第2章 不完全敗戦論
第3章 「敗戦国=国家滅亡」の嘘
第4章 <戦前>と<戦後>の分断と連続
第5章 「戦後レジームからの脱却」の嘘
おわりに 僕たちが住むこの世界と<戦後日本>のさかい目

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