村上春樹さんの短編集、『レキシントンの幽霊』を読んで、印象的だった一節を二つ、読書メモしておきます。
『レキシントンの幽霊』 は7編の短編からなる村上春樹さんの短編集です。
この7編、いずれもすこし”怖い”系のお話ですが、村上作品らしいものといえます。
なかでも印象的だった一節が次の2つ。
「・・・でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。彼らは自分が何か間違ったことをしてるんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちらっとでも考えたりはしないんです。自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当たりもしないような連中です。彼らはそういう自分たちの行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任も取りやしないんです。・・・」(『沈黙』より)
「私は考えるのですが、この私たちの人生で真実怖いのは、恐怖そのものではありません」、男は少し後でそう言った。「恐怖は確かにそこにあります。・・・それは様々なかたちをとって現れ、ときとして私たちの存在を圧倒します。しかしなによりも怖いのは、その恐怖に背中を向け、目を閉じてしまうことです。そうすることによって、私たちは自分の中にあるいちばん重要なものを、何かに譲り渡してしまうことになります。私の場合には———それは波でした」 (『七番目の男』より)
村上作品に共通する概念は「喪失」です。
その対象は作品によって「青春」という一時期であったり、人間関係であったり、命そのものだったりと違っていますが、常に何かを失う、そして失ってから得たものを描いています。
なぜなのか?
それは著者ご本人に効かなければ分かりませんが、
『遠い太鼓』 (講談社文庫) にこんな一節があります。
しかしいったん長い小説にとりかかると、僕の頭のなかにはいやおうなく死のイメージが形成されてしまう。そしてそのイメージは脳の周りの皮膚にしっかりとこびりついてしまうのだ。僕はそのむず痒く、気障りな鉤爪の感触を常に感じつづけることになる。そしてその感触は小説の最後の一行を書き終える瞬間まで、絶対に剥がれ落ちてはくれない。
つねに「死」のイメージとともに創作されている作家だからこその”深さ”を、ファンは感じているのでしょう。
熱烈なファンを生み出しているのはそのあたりが理由かと思ってしまった読後感でした。