おはようございます、哲学というと大学の寮の後輩が哲学科の変わったヤツで、肘フェチだったことを思い出す一龍(@ichiryuu)です。
さて今日は、あのミリオンセラー『超訳ニーチェの言葉』の著者、白取春彦先生の最新刊のご紹介。
「哲学なんて小難しいだけで取っ付きにくいなぁ」という方にぜひ読んでほしい1冊です。
【目次】
はじめに
1幸福は現実の中にのみ存在する
2「強く生きる」とはどういうことか
3「自分の仕事」を見つける
4自分の人生を採点しない
5運命を決めるもの
6人は何のために生きているのか
7幸せになる一つの方法
8個の世界のすべてを理解することなどできない
9考えは言葉や行動にしなければ存在しない
10願いを実現する確かな方法
11「わからない」ままでいること
12「心」は本当にあるのか
13心と体は別物ではない
14言葉にできない世界が存在する
15相手の見ているものが見えているか
16自分の中の「野生」を知る
17相手を本当に理解するために
【ポイント&レバレッジメモ】
★観念にとらわれると不幸になる
不幸になるのは難しくはない。現実になすべき事柄を放り出して意味の曖昧な観念や概念を負い続けるならば、確実に不幸になる。というより、貧してしまう。<中略>
ビジネス界に蔓延している観念語は成功と失敗だ。ビジネスマンたちはこの脅迫的な観念語のために一喜一憂し、人間的な生活を削っている。そのハードな日々に追い討ちをかけるように、ビジネス書はこの成功と失敗という観念がいかにも現実そのものの評価であるかのように語る。
観念語を組み合わせた文章もビジネスマンたちを悩ませる。その最大のものは、「資本主義とは利潤の追求である」だ。この観念的な定義は現実にそぐわない。<中略>
「資本主義とは利潤の追求である」という妙な定義は一種の諧謔か、幻を描くための下手な詩的表現とみなすほうが妥当かもしれない。そうでないと、この言い方に捕まったが最後、精神的にも窮地に追い込まれてしまうだろう。
★たった一つの正答などない
私たちが目を覚まさなければならないのは、いくら観念や概念の中身を追い求めたところで、期待していた恒常的な正答、すなわちワンサイズの答えなど最初から存在しないということだ。ワンサイズの洋服だけ売る店がないように。
もし、真理とは何か、真善美とは何か、と言った事柄についてたった一つの正答があったとしよう。そして、その正答が発見されたとしよう。すると、どうなるか。
思考実験をしてみればすぐわかるはずだ。わたしたちは脱力するだろう、また曖昧でこのうえなく混沌としていた世界が、一瞬で無意味な茫漠とした世界になるだろう。
今のよくわからない状態はもどかしいものではあるけれど、霧の中を歩くように神秘的な状態でもある。しかし神秘的ということは、人にとってこの上なく魅力的だということでもあるのだ。
★迷いながら生きる
不安だから、何らかの強力な固定点が欲しくなる。その固定点を外に求めて自分のものにしようとするか。もしくは、不安を抱えながらも、そのつど一つ一つ自分で考えて判断していこうとするのか。
どちらが強く生きようとする人の態度であろうか。
★「良い人生」へと導くもの
仕事は、美徳とよばれるものの有意義さを無言で教えてくれる。たとえば、信頼と正直という美徳だ。この二つがなければ、どんな仕事も、悪事でさえ形になることがない。互いに信頼し、互いに正直であることによって、多くの事柄が成就する。芸術家の仕事のように個人的に見えるものですら、だ。
また、仕事は確実に自分を変えてくれる。その仕事をやったかどうか、完成まで耐えられたかどうか、仕事に進行にそって持ち上がってくる様々な障碍や問題を克服できたかどうか、その一つひとつが自分を変える。
また、仕事によって自己信頼が高まる。これは実績に裏打ちされた自信となり、さらなる可能性への挑戦をうながしてくれるようになるものだ。
仕事は自分の技術や能力を高見へと引き上げてくれるばかりではなく、自分の人間性、倫理、人生観をも大きく変えてくれる。そのことを知り、仕事を大切に思い、報酬以上のものを得ていると自覚して丁寧な仕事を続けていく人が自分の仕事を持った人なのだ。
それは幸福の範疇に入れてさしつかえないことだろう。
★「愛」が運命を決定する
何事にも愛を持って接していれば、知は増えるし、価値の領域が拡大していく。つまり、何事にもそれぞれの価値を見出す力が生まれ、ひいては人を生かす、物を生かす可能性が増大するということである。それは当然ながら、精神的にも物質的にも豊かになることに結びついていく。<中略>
物事や相手を一方的に断じてしまわないこと。過去がどうであろうとも、今を見ること。自分の欲得のために物事や相手を利用し役立たなくなったら捨てる、という功利性を捨てること。攻撃するのではなく、受容すること。
待ち続け、怒らないこと。耐えること。排斥しないこと。物事や相手をちゃんと知ろうと心がけること。自分も素直に胸襟を開き、隠し立てをしないこと。
こういうふうな態度でわたしたちが生き始めたとたん、事態は良い方向へと一変するのは確かだ。なぜならば、そういう態度をとる人間に対して相手はもはや素直に心を開くしかないからである。それこそ、幸運の具体的な始まりである。
★「自分」も思い込み
その世界が仮構であることに本人はゆめゆめ気づいていないが、さらに知らないことがある。自分が考える「自分」もまた仮構だということだ。自分とは、仮構の世界に対して反応している自己という「人」なのだ。
そして仮構の世界の中でも、「自分の考えることや行いは善とは言い切らないまでもおおむね正しく妥当なものだ」と遠近法的に考えている。
ややこしいが、「自分だ」と「私」が思い込んでいる「自分」とは仮構のなかでつくられた仮構だということになる。もちろん、それは他人が見ている自分とはまるで異なっている「人」だ。
こうしてわたしたちは一つの話題について同じ言葉を発してうなずいていながらも、実は全く異なる「それぞれの世界」を見ているということになる。
【感想など】
「我が意を得たり!」である。
哲学とか宗教(特に仏教)に対する自分の中に存在した疑問とか直感的な嫌悪とか、感じているけれど言葉にできないからはっきりせずにモヤモヤしていた事柄がすべてスッキリした。
本書の読後感はまさにこれに尽きます。
それはもう本書冒頭部分の
吐露してしまえば、私は哲学書を思考と人生経験の芸術だと思っている。論理の正確さだの思考体型だの真理の探究ではないと思っている。
の一文を読んだだけでスコーンとやられた感じ。
なぜならば、論理的に正しいだの謝っているだのは数学のような人工的な次元でしか意味を持たないと考えるからである。
そうなのです、全くその通りなのです。
以前紹介した
の中で、これから読むべきもの、勉強すべきものとして「哲学」をあげられていました。
確かにワタクシもいい年なので、そろそろ大人の教養として東西問わず哲学は読んでおくべきと、そのことには共感します。
しかし、哲学を読んで一体何になるの?というのがずーっと心の根底にありました。
その理由は例えばギリシア哲学。
万物の根源は?という問いを一生懸命こねくり回して一体何になるのか?
あるいはソクラテスは町中でヒマそうな相手をつかまえては問答法なんて悠長な方法であーだこーだ議論して、最終的には「無知の知」なんてことを言うのだが、「そんなこと時間かけて議論せんでもわかってるやん!」とツッコミを入れてしまいたくなる。
こういったものを”大人の教養”と称して貴重な時間をかけて読む必要があるのか?
そもそもこれが人生の糧となるのか?
ずっとこういう疑問があって今ひとつ読む気になれなかったのです。
また、哲学と限りなくニアリーな存在である宗教についてもそう。
本来、人の一生に寄り添い続け、人を支え導く存在であるはずの宗教が、わざと難解な言葉を使ったり、あるいは雰囲気の厳かさで有り難さを演出するようなことに非常に違和感を感じていました。
が、それについてもスッキリ。
哲学は本来、生活の中にあり、人生に寄り添うもの。
それ自体なくても生きていけるけれど、それを知ることで人生の味わいが変わってくるもの。
料理で言えばスパイスのような存在でしょうか(白取先生、間違ってますか?)。
では、どんなスパイスで人生を味付けするか?
この問いに対する決まった答えはないのです。
たぶん人の数だけ、人生の数だけ答えがあるのだと思います。
その最小公倍数が文字で表現される「哲学」なのでしょう。
大切なのは、答えはない、だけど、人生の中で考え続けるということ。
そういう意味では一人一人が哲学者であり、人生は思索の旅なのかもしれません。
とはいえ、どう生きるのが人間らしいか、どう生きると人生が楽しくなるかのヒントが本書の最後にあります。
なんと、犬とかペットの存在。
人に飼われていながらもこういった野生や本能をあらわにして生きていることを見せてくれるからこそ、犬をはじめとしてペットたちは人の癒しとなりえるのだ。
つまり、わたしたちがこの現代生活の中で忘れつつあるものを身近にしてくれるからだ。それは野生であり、生命の純粋な活動だ。
ワタクシは犬が大好きで、2匹の犬と一緒に暮らしておりますが、たしかに彼女たちの”今の命をそのままに生きる”姿は、時にうらやましくもあります。
将来に対する不安も過去に対する航海もなく、喜びや悲しみを素直に表現する生き方。
心と身体が分離していない姿は、様々な抑圧の中で生きている現代人にとって、よりよく生きるための答えを晒してくれているのかもしれません。
どう生きるか?
その思索の旅へ、本書を読んで出発してみませんか。
「文章は、正しいテンポで読むときだけ、理解することができる。私の文章は、全てゆっくりと読まれるべきだ」(ヴィトゲンシュタイン)
と、引用されているとおり、ゆっくりじっくり味わいたい一冊。
本書は著者、白取先生から出版社様を通して献本していただきました。
ありがとうございました。(大竹さん、スペシャルサンクス!)
【管理人の独り言】
今日ご紹介した本は白取先生から献本していただいたのですが、一緒に既刊本2冊も送ってくださいました。
しかも3冊すべてにサイン入り!
現在我が家にはサイン入り『超訳ニーチェの言葉』が2冊ありまして、これで白取先生のサイン本が計5冊となりました。
白取先生、ありがとうございました!
ちなみに、今回一緒に送っていただいた2冊はこちら