ルール変更に対するモヤモヤをすっきりさせてくれる。
国際社会で戦うにはこういう価値観や思考も必要だと痛感させてくれました。
ずるいか、ずるくないか?読めばその基準が変わります。
【目次】
はじめに 日本人はルールを守りすぎて損をしていないだろうか?
第1章 なぜ私たちはルール変更を「ずるい」と思うのか?
第2章 実際に「ずるい」を味わってみる
第3章 ルールを変えれば本当に勝てるのか?
第4章 ルールがあってこそ成長する
第5章 ルール作りのプリンシプル
あとがき
【ポイント&レバレッジメモ】
★日本人がルール変更を「ずるい」と思う3つの理由
①日本文化の中に存在する行動や戦いに関する美学
(例)「スポーツマンシップ」
誰からも非難されることのない正々堂々とした行動
ルールを守るプレースタイル
勝負や判定に関する潔い態度
②欧米とのルールに関する考え方の違い
日本人・・・「ルールは他の誰かが作るもの」「つくられたルールの下で最善の努力をする」
欧米人・・・ルールとはあくまで「決めごと」、ルールも「勝つための一手段」
③ルールとプリンシプルの混同
ルールは考え方の違う人や組織の間に適用されることが想定されているようで、参加した人は守るという“他律的な指向”が強いものです。罰則がある場合もあります。
これに対し、プリンシプルは、考え方の近い人や組織の中で自然にできていくもので、当事者だけに適用されるという自律的な要素が強く、第三者がこれに従うと称賛はされますが、当事者も含め、それを守らないからといって罰則はないし、本来、非難できるものでもありません。
★日本人のプリンシプルはわかりにくい
日本の企業や政府、個人の態度が、原則探しの得意な欧米人から、ときに「わかりにくい」とされるのは、日本人は是々非々や対処療法的な行動が多く、プリンシプルが見出しにくいことに原因があるようです。
★ルールを理解するための3つの視点
①欧米列強にとっては、ルール作りも闘いに含まれている。
②私たち日本人はそうした闘い方をずるいと考える。
③当座は、ルールをつくった側が戦いを有利に展開できる。
★ルール変更の結果についての3つの結論
①ルールを変更した側が、必ず勝者になれるとは限らない。
②逆にルールを変更された側が勝者となるケースもある。
③特定の製品・サービスに有利なルールの変更は、勝ちすぎを助長することがある。
★ルールなどの制約は人間や企業にとって成長の原因となる
「原始社会から文明が端徐する鍵は、厳しい気候風土といった挑戦的事象に対する人類の反応にかかっている」
「過度なものは文明を滅ぼしてしまうし、逆に簡単に乗り越えられるものなら文明を成長させることはない」
アーノルド・トインビー
⇒ルールなどの制約は、成長の糧になりうるもの
★ルール作りのプリンシプル
◇ルール作りには参画すべき
ルールメーカーには、ルールの内容や目的を説明する責任があります。そして、ルールを守る側もそれを要求しなくてはなりません。
時刻、自社に有利なルールを作ろうとする相手は、土俵の上に引きずり出してしまえばよい
◇ルール作り参画の2つのキーワード
①「公益と社益」
どんなルールも、個人、個社、一国だけではなく、全体にプラスの貢献をするように作られなくてはなりません。
⇒公益と社益が一致してこそ、企業の存在意義もある
②公益と社益の「バランス」
プロとしてのバランス感覚を信じる ⇒ 「利益をあげつつ、お客様の要望を満足させよ」
【感想など】
出版からだいぶ時間が経っている本ですが、面白い視点をいただいたので紹介します。
まずは冒頭部分の「スポーツマンシップ」について。
正々堂々とか、全力で正面からぶつかるとか
武士道の影響なのか(?)確かに日本人は今でもこういう思考にとらわれていますね。
私も確かにそういう“さわやか”なスポーツマンシップが大好きです。
でも、その反面、“ルールの範囲内で勝つために作戦を駆使する”という試合も評価したりします。
例えば、古い話ですが、
現メジャーリーガーの松井秀喜樹選手が星稜高校時代、甲子園大会で全打席敬遠されて負けた試合がありました。
甲子園ではブーイングの嵐。
対戦チームの監督はひどいバッシングを受けました。
たしかに、プロの試合と違って高校野球は教育的側面もあるので、総合的に判断するとあれがいい作戦だったかどうかは疑問の残るところではあります。
しかし、単純にスポーツの試合としてみるならば、「相手の最大の武器を封じ込める」というのは戦術の基本中の基本。
しかも反則ではなく、ルールの範囲内の選択でしかありません。
ワタクシは対戦相手へのバッシングに対し、「何でそこまで批判するんや」と当時は憤りを感じたのを覚えています。
だって、スポーツの世界では反則ギリギリのプレーは当たり前だし、それを平然とやってのけることを要求される場面も多々あるのです。
ワタクシ思うのですが、
こういう一種の“潔さ”に対する美意識が日本人の良いところだし、ワタクシも大好きです。
が、同じ価値観を相手に求めることが、国際社会の中では相手に隙を与える結果を招いているような気もします。
そのよい例が“ルール変更”というテーマで本書ではふんだんに取り上げられています。
ルール変更自体には賛否両論あっていいと思います。
ワタクシは、それが全体にとっての利益となるなら日本人に一時的に不利益になっても仕方ないと思っています。
例えばソウルオリンピックで競泳背泳ぎの鈴木大地選手がバサロスタートで金メダルを取ったあと、バサロに制限がかかるルール変更がありました。
このときも日本人は「なんで!?」と憤りましたが、
これ、冷静に考えれば“背泳ぎ”という種目なのに25メートル以上バサロで潜水して進むという状態が異常ですよ(笑)。
また、レーザーレーサーのようなスピード水着禁止もしかり。
あの水着は凄く高価で、しかも何度か着ると伸びてしまい水着自体の寿命が短い。
つまり、資金が豊富な国やスポンサーのついている有名選手しか着れません。
これを禁止にすることで、より多くの選手が同じ条件で戦えるようになるわけです。
だから、ルール変更に対して単純に批判するのではなく、まずその目的をしっかり確かめるべきなのです。
ただし、ルール作りには参加すべきです。
ここはしっかり押さえるべきです。
本書中に、米国オクラホマ州のことわざとして紹介されている言葉
「テーブルに着かないなら、君の名はメニューに載るしかない」
(If you are not at the table,you are on the menu.)
打ち合わせに出ない人の利害は考慮されない。出てこないなら、食べられてしまうしかない。つまり、ルール作りという協議の場があるなら、そこに出て、自分の意見を伝えなければ、勝負は負けだということ
これが欧米のルールに対する価値観なんですね。
決まったルールを守って闘うのは日本人の美意識。
それをワタクシも美しいと思います。
しかしそれはルール作りに参加したうえでのこと。
そういう意識を持つことも真の国際化ではないかと考えさせてくれた本でした。
なお、本書中には本田宗一郎さんのエピソードも随所に登場します。
その部分も面白いので一読を。
【関連書籍】
著者、青木高夫さんの翻訳本
本書中で紹介されている本