こんにちは、なおさん(@ichiryuu)です。
今日ご紹介するのは、
ワタナベアニ(著)『ロバート・ツルッパゲとの対話』センジュ出版
父ちゃん、ずいぶんインパクトのある本だね
うん、僕もこの眼力とタイトルにやられて”ジャケ買い”しちゃったよ
なんかいろいろ怪しそうな本だなぁ
この記事では本書の内容から、自分オリジナルの生き方をするための思考に関するヒントに注目してまとめてみました。
- なにか生き辛さを感じている人
- 既存の同調圧力に窒息しそうな人
- オヤジギャグ好きな人
『ロバート・ツルッパゲとの対話』:読書メモ
自分が何をしたいかに忠実になる
人間の価値というのは何かの競技で表彰台に乗ることだと思っていませんか。そうじゃない。勝手に「誰かの価値観」という、エントリーした覚えのない競技のスタートラインに立たされていると思ったら断固拒否していいのです。今までどこにも存在しなかった競技を自分のためだけに発明してもいい。とにかく人から強いられた競争に参加する義務なんて全くないのです。
生き辛さの原因の一つが、自分とは違う誰かや社会の価値観を押し付けられ、その中で生きなければならないことではないでしょうか。
スティーブ・ジョブズは「他人の人生を生きるな」と言いましたが、僕たちはけっして誰かが決めたルールのなかで、好きでもない競技を競う必要はありません。
その競技に参加することが大人になることだと誤解しているんです。
大人になるというのは、夢をあきらめることだと思われがちですが、実際はそうではありません。いかに子供のように純粋に、自分に言い訳をせず、やりたいことを実現できるか、にかかっています。
子供の頃と違って大人になると、確かに選択肢は減っていきます。
でも、それは自分て諦めているだけなのです。
それに、生き方次第では大人になってから生まれる“選択肢”もあります。
それらをあきらめたり、見て見ぬふりをしたり、できない理由を生み出して自分を納得させている人がほとんどなのではないでしょうか。
そういう人は“哲学”を持っていないのです。
自分がしたいことを考えず、与えられたことだけをこなして自分を騙してしまう。これが哲学の不在です。仕事の哲学ではなく、本来の意味で言う、哲学です。
自分がやりたいことだけをやろうとすると、わがままな人に思われない?
それを気にすること自体がもう自分を騙しているということなんだよ。
もっと自分の欲求に素直になればいいんだよね。
哲学の不在
何が定義であり、何が正解か。それをあまりよく考えずに、「多数決の正解」で、多くのことをごまかしていないでしょうか。みんなが言うから。昔からそうだから。それが普通だから。多数派の陣営に無自覚に加担するのは、何も考えていないことと同じです。大勢の大きな声に紛れてしまうと生きていくのはラクなんですが、自分が必要とされる価値は限りなく透明に近いゼロになります。哲学というのは、今までに誰も言わなかった世界の側面を発見して提示するのが目的ですから、多数決とは全く逆の作業です。
奇を衒う必要はありません。
へそ曲がりになることもありません。
もっと言えば、著者の考えには添いませんが、多数派にいてもいいです。
ただ、そこに至る過程でしっかり自分の頭で考えたか? ということです。
自分の行動に、思考に、価値観に、自分自身の根底の部分がちゃんと基礎としてあるのか? その基礎に則った人生を歩んでいるか?
それがなければ、自分の人生に納得感は生まれないでしょう。
残念ながら、多くの人が自分の人生を本気で考えていないのではないでしょうか。
まぁ、考え抜いた上で納得して「俺は流されるままに生きていく」と決めたのなら、それはそれでいいですけど。
みんな、自分の人生について考えることをしないよね
長いものに巻かれるのはラクだけど、自分がどう生きると幸せかと多数決は関係ない。
結局、生き方に正解なんてないんだよ。
世間の常識を疑え! ってことだよね。
自己判断の放棄
日本人は良くも悪くも流行に敏感ですよね。
日本人は「フレキシブルな頑固者だ」、とロバートは言います。流行のスタイルや外国から入ってきたブランドものには極端に敏感なのに、その歴史や本質にはまったくと言っていいほど興味がない。大勢が初めて聞いた情報にピラニアのように群がり、一瞬で消費し尽くし、「あれはもう古いよね」で、ブームが終わります。
例えば昨年はタピオカが大ブームになりました。
が、今年の夏はもう行列はできないでしょう。
ブームに乗っかるのは別に悪いことではないと僕は思います。
それよりも、食わず嫌いではなから体験しないという人生の方が貧しいと思いますから。
それで心の底からタピオカが美味しいと感じ、また食べたい(飲みたい?)というのなら、何度もリピートすればいい。
でも、大して美味しいとも思わないのに、なんとなく持って歩くのがオシャレというだけでリピートしている人。
こういう人が、著者が言う次のような人なのです。
日本人はとにかく他人が決めた評価に弱いと言えます。ランキング、占い、外国の権威、有名人の推薦。自分が決めるべきことに対して他人のスタンプが押されていないと不安で仕方がない。選択した責任を自分が取りたくないのでしょう。
で、ここに存在しているのが、「自己判断の放棄」です。
自分で考えない、自分で判断しない。
誰かに言われたまま、なにも考えずに行動しているのです。
「日本人はルールを守る品行方正な国民なのではなく、ルールを破っている人を見つけたら責め立てて守らせるのが好きな国民である」と誰かがうまいことを言っていました。
父ちゃん、タピオカ美味しかった?
体験することは大事だからタピオカを飲みながら表参道を歩いてみたよ。
でもはっきり言って、人生でもう2度と飲まないと思う。
結局あれもファッションなんだよね。
生きていると死んでいる
現在は過去から繋がっています。過去があったから今がある。健康食品を研究している人も、最終的には全員死にます。ですから生きているうちに「生きて、やりたいこと」をしなければ間に合いません。行きたいところに行き、やりたいことをやる。それができない理由が「死んだから」なら分かります。ご冥福を祈りますが、生きているなら何か方法がある。他人のアドバイスというのは常に「そうしない方がいい」に偏りがちです。心配している、と言うのです。でも持っている可能性を殺してまで無事に生きていく事は、本当に生きている事なんでしょうか。
転職とか企業とかなんでもそうですが、自分がやりたいことを誰かに相談するときは注意が必要です。
自分がやろうとしていることの経験がない人に相談しても、たいてい止められるだけです。
こういう人をドリームキラーといいますが、そもそも僕は経験のない人に相談すること自体が間違いだと断言しておきます。
たとえば、あなたが独立して起業したいときに、同じ会社で働いている、新卒からずっとその会社一筋に働いている転職の経験すらない先輩に相談しますか?
しないですよね。
そして、大切なのはここから。
その先輩間違いなくこう言います、「世の中そんなに甘くない。悪いことは言わない、やめとけ。お前のために言ってるんだぞ」。
そこで心揺らいで夢を諦めるなら、死んだように生きるしかないでしょう。
父ちゃんは仕事辞めるとき誰かに相談した?
誰にも相談しなかったよ。
だって、自分で答えをもう出していたから。
それにまわりはドリームキラーばかりだったから、相談してもしかたなかったしね。
そういうところ父ちゃんはキッパリしてるよね。
多分そういう人でないと実際に行動に移さないんだろうね。
冒険的人生
冒険的人生と安定人生を比較したら冒険人生の方が楽しそうなのはわかりますけど、多くの人は安定を選びます。でもそれは「安定人生」が確実に機能していた終身雇用時代の話であって、してみたい冒険を我慢して捨てた見返りの安定すら手に入らなくなっているのが現状ではないでしょうか。「俺、ギタリストになりたいよ、父ちゃん」と言えば、だいたいの親は反対するでしょう。そんなので食えるか、ちゃんと就職しろ、と言われます。でもちゃんと会社に就職してはずの父親が家族に安定した幸福を見せることができていなかったらどうなりますか。たぶん、高度経済成長期やバブル期には哲学など誰も気にしていませんでした。でも正しいと思ってやってきたことが裏切られ、すべてをお金や勝ち負けで判断する風潮が蔓延したからこそ、自分はその戦いに加わるのか、それともそうではない理想の生活をモサクするのかを考える哲学的なチャンスがやって来たのだと俺は思っています。
冒険では食えないという建前の保険を効かせて安定を求めた人は、唾を吐いた若いサラリーマンのようにコタの生き方を徹底的に嫌います。何かをあきらめて選んだ自分の選択を否定されるのが怖いし、悔しいからです。真面目に働いていても年に何度も外国に行けないし、ビジネスクラスにも豪華客船にも乗れない。それが羨ましいのかもしれません。
この章ではホームレス小谷さん(@kotanimakoto)の生き方を例に、冒険的人生について語られています。
詳しくは西野 亮廣さんの本を読んで欲しいのですが、名前の通り自分の家を持たず、1日50円で仕事を請負ったりして生活している人です。
この方の生き方を初めて知ったとき、すごい衝撃を受けましたが、「ああ、こう言う生き方が成立する時代が来たんだな」とある種の感動を覚えたものです。
人生は確かに甘くない。
でも、意外と厳しくもない。
人と違う生き方自体に“価値”が見出され、そこに人やお金が集まるという面白い時代が始まっています。
労働観とか人生観とか、そろそろファームウェアアップデートをする時期が来ているんじゃないでしょうか。
もちろん、古いバージョンで生きていく選択もありですが。
父ちゃんもホームレス小谷さん好きだよね。
やっぱりオリジナルな人生を生きている人って魅力的だよ。
『ロバート・ツルッパゲとの対話』:まとめ
油断できない怪書
今回は本書の中から自分オリジナルな生き方をしていく上での考え方のポイントを紹介しましたが、いかがだったでしょうか。
今現在、組織や社会の中で生き辛さを感じている方、その原因となっているもののがこの記事の内容がヒントとなれば幸いです。
さて、本書は表紙のデザインからタイトル、そして著者の名前までふざけていると言うか、怪しいと言うか、良くも悪くもインパクトのある仕上がりとなっています。
で、結局なんの本なの?
ということですが、僕も正直言ってわかりません(笑)。
というのも、著者のメッセージは確かに存在しているのですが、それをカモフラージュするかのように随所に散りばめられているオヤジギャグに気を取られてついつい見逃してしまうのです。
だから、目を皿のようにして、一字一句一瞬の油断もせずに読まないといけないため、久しぶりに体力を消耗する読書となりました。
僕は関西での生活経験があるので、ついつい著者のオヤジギャグに突っ込んでしまうんですよね。
「ハンマーヘッドシャークで殴れへんやろ!」と。
本書読まれるときは精神を落ち着けて、半眼で読まれることをお勧めします。
まぁ、冗談はこれぐらいにして、本書を理解する上でのキーワードは“哲学”です。
本書冒頭に次のような詩(?)があります。
人それぞれに解釈があるから
何が正しいかはわからない。
でも、もしかしたら
ゆらぐことのない
万人にとっての正解が
あるんじゃないか。
それを探す旅を「哲学」と呼ぼう。
哲学というとなにか難しいもの、人によっては拒否反応を起こすかもしれません。
ですが、そんな学問的なことではなくて、著者が言うのは、自分の人生をもっとちゃんと考えようよ、自分の価値観や生きる上での基準を持とうよ、といった感じのものです。
「そんなこと言われなくてもできているよ」と思うかもしれません。
ですが、本当にそうでしょうか。
あなたの価値観は世間の常識の焼き直しではないですか?
僕も偉そうなことは言えませんが、世の中のほとんどの人は自分の人生について深く考えていないように感じます。
そして、考えている人も生き方に疑問を持ちつつも、変化を起こそうとしないですよね。
生活の中に冒険を持とう
ただ、一方で僕は、変化を起こさない人たちを責める気にはなれません。
「変化を嫌う」「周りと同調する」というのは、“哲学”があるとかないとかそんなレベルの話ではなく、太鼓の昔から僕たちが自然界の生存競争の中で生き抜くためにDNAにすり込まれている“プログラム”だからです。
僕たちの祖先はまだヒトというより猿に近かった数百万年前、ネコ科の大型肉食獣が住むアフリカの大地で生き抜いてきました。
そんな危険と隣り合わせの生活の中では、周りの人と同じことをするのが一番生存確率が高く、逆にみんなと違うことをすればその個体は生存できず遺伝子を残すことができません。
つまり、僕らはみんな「周りと同じことをして生き抜いたヒトの子孫」といえます。
もう数百万年の間DNAに刻み込まれているわけですから、人と違う人生を生きようとすることはすごく勇気がいるし、周りは当然「危険だからやめろ」と言うのです。
ソクラテスが「より良く生きるとはどういうことか」をテーマにして問答法で「ああでもない、こうでもない」と暇に任せて真理を探求しはじめてからおよそ2400年経ちましたが、人類の長い長い歴史から見れば、「あっ、そう言えば俺、周りに流されてるな」と今やっと気がついたぐらいのものなのです。
それを、「哲学がない」というのは、ちょっと酷な気がします。
ただ、ここ最近、世の中ではようやく生き方や働き方の多様化が理解される風潮が出てきました。
やっと、自分らしい生き方をしても大丈夫な環境になりつつあるんじゃないかと肌で感じます。
そこで提案したいのは、サラリーマンをしながら生活の中にちょっとした冒険を導入してみること。
実は僕はまだ勤め人の頃にこの本に出会って真面目な勤め人からプチ脱出しました。
本当にやりたいことがあるなら、少しずつでも今の生活に取り入れて、まず行動すること。
仕事を「できない理由」にしていては、多分人生そのまま時間切れになるでしょう。
日本には哲学も宗教も存在しない?
さて最後に、著者は本書の中で
「自分に何も感動を与えないモノは、どれだけ他人の評価が高かろうがよくないと全面的に決めていいし、クソミソに言っていい」
と書いてあったので、著者の意見に真っ向対立してしまいますが、これだけはどうしても言いたいことがあったので少しだけ反論と補足をしておきます。
著者は本書の中で、日本人について、
人が生きる指針であるべき「哲学」の存在をまったく知らない
とし、さらに
そして日本にもうひとつ、ないものがあります。それが「宗教」です。宗教は哲学の親戚で、「生きるとは何か、死ぬとは何か」を探求することが目的ですが、人々は初詣やクリスマスで神社や教会を意識する以外、それらを生々しく考えないようにしています。
と主張しています。
日本人には哲学も宗教(信仰)もないということですが、それは違うでしょう。
正確に言えば、日本人には西洋の哲学は必要なかった。
なぜならこの国には太古の昔から宗教が存在し、生き方の指針は示されていたから。
ただ、その宗教が今日の我々が規定する宗教とはかなり違い、例えば布教活動は一切しないし、また、セム系の一神教のような厳しい戒律もないため、我々があまりにも宗教として意識していないのです。
しかし、その精神はしっかり僕たちの中に存在していて、歴史上時々顕在化していますし(例えば憲法十七条)、江戸時代の人は「お天道様に顔向け出来ねぇ」なんて言ったりしますよね。
本居宣長先生がおっしゃるように、存在するのに忘れているだけなのです。
ということを付け加えて、この記事を終えたいと思います。
オヤジギャグの海で真理を探す書
著者プロフィール
ワタナベアニ
『ロバート・ツルッパゲとの対話』
1964年横浜生まれ。写真家・アートディレクター。広告プロダクション、株式会社ライトパブリシティー勤務を経て、独立。「45 R」などのクリエイティブディレクションを手掛ける。日本テレビ『anone』ドラマポスターで日本広告写真家協会・優秀賞を受賞。雑誌・広告・ファッションカタログ、国内外での写真展を中心に活動。
『ロバート・ツルッパゲとの対話』:もくじ
客観的なまえがき
ワタナベアニの前書き
ワタナベアニの前書き その2
1 哲学者とサラリーマン
2 殺人と不倫
3 竹刀とラケット
4 ラノベとワイドショー
5 パラレルとワールド
6 ウィトゲンシュタインと少年ジャンプ
7 名詞とパラダイム
8 野外とフェス
9 サバティーニとスターバックス
10 西葛西とニューヨーク
11 ソクラテスとツルッパゲ
12 デュジャンとゴッホ
13 75億人とカサブランカ
14 ビキニとオオトカゲ
15 ソーシャルとメディア
16 ガラパゴスと世界のサカモト
17 古民家カフェと干し柿
18 ムクドリとワゴンR
19 お金と倍数
20 気づきと学び
21 生きていると死んでいる
22 求めると求められる
23 パリとベルリンのカフェ
24 美容師と料理人
25 キム兄とホームレス小谷
26 ランプと自殺
27 名刺と空港
ロバート・ツルッパゲとの対話
後書き
関連書籍
『ロバート・ツルッパゲとの対話』に登場する幡野広志さんの著書。