おはようございます、一龍です。
僕は常々、村上春樹さんの紀行文が好きと言ってきましたが、先日”村上紀行文ファン”に朗報となる、『ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集』 が出版されました。
早速読んでみたのですが、これまでの紀行文とはまた違ったテイストとなっていて、村上紀行文ファンとしては新たな魅力を発見できる一冊となっています。
今回は、村上春樹さんにとって”旅”とは何か?といったことを語っている部分をピックアップしてご紹介します。
もちろん、あの独特の村上節の部分も少しだけですが紹介しますよ。
“旅”とは何か?ポイント
★水のある風景
僕は思うのだけれど、たくさんの水を日常的に目にするというのは、人間にとってあるいは大事な意味を持つ行為なのではないだろうか。まあ「人間にとって」というのはいささかオーヴァーなのかもしれないが、でも少なくとも僕にとってはかなり大事なことであるような気がする。僕はしばらくのあいだ水を見ないでいると、自分が何かをちょっとずつ失い続けているような気持ちになってくる。
水面は日々微妙に変化し、色や波のかたちや流れの速さを変えていく。そして季節はそれをとりまく植物や動物たちの相を、一段ずつ確実に変貌させていく。いろんなサイズのいろんなかたちの雲が、どこからともなく表れては去っていき、河は太陽の光を受けて、その白い像の未来を鮮明に、あるいは曖昧に水面に映し出す。季節によって、まるでスイッチを切り替えるみたいに風向きが変化する。その肌触りと匂いと方向で、僕らは季節の推移のノッチ(刻み目)を明確に感じることができる。そのような実感的な流れの中で、僕は自分という存在が、自然の巨大なモザイクの中の、ただのピースのひとつに過ぎないのだと感じることになる。
「チャールズ河畔の小径 ボストン1」より
★「すかすか」の国
アイスランドの面積はだいたい四国と北海道をあわせたぐらいである。広いといえばけっこう広い。それでいてさっきも言ったように人口が30万人弱だから、かなり「すかすか感」はある。もちろんヨーロッパでいちばん人口密度が「すかすか」の国である。数字だけ聞いてもかなりすかすかだろうなと想像はできるのだが、実際に行ってみるとほんとに人がいない。もちろんレイキャビックは首都で都会だから(人口の半分近くがここに集まっている)それなりににぎやかで、朝夕にはしっかり車の渋滞なんかもあるんだけど(ほかに交通機関がほとんどないので、みんな車を運転するから)、レンタカーを借りてちょっと足をのばすと、そこはもう文字通りのすかすかランドである。
「緑の苔と温泉のあるところ アイスランド」より
★不便さは旅に喜びを与える
不便さは旅行を面倒なものにするが、同時にまたそこにはある種の喜びーーーまわりくどさがもたらす喜びーーーも含まれている。
次にこの島を訪れるのはいつのことだろう?いや、もう二度とそこを訪れることなんてないかもしれない。当たり前のことだが、どこかに行くついでにふらりと立ち寄るというようなことは、島についてはまず起こりえない。僕らは心を決めてその島を訪れるか、それともまったくその島を訪れないか。どちらかしかない。そこには中間というものはない。
三時間後に船はピレエンス港に到着する。僕は荷物を肩にかけて、固い大地を踏みしめ、そして日常の延長線上に戻っていく。僕が属する本来の時間性の中に戻っていく。いずれは戻らなくてはならない、その場所に。
「懐かしいふたつの島で ミコノス島・スペッツェス島」より
★旅の哲学
もちろん何もかもがすへてとんとんと順調に運んだわけではない。「旅先で何もかもがうまく行ったら、それは旅行じゃない」というのが僕の哲学(みたいなもの)である。
「シベリウスとカウリスマキを訪ねて フィンランド」より
★何かを探すのが旅
さて、いったい何がラオスにあるというのか?良い質問だ。たぶん。でもそんなことを訊かれても、僕には答えようがない。だって、その何かを探すために、これからラオスまで行こうとしているわけなのだから。それがそもそも、旅行というものではないか。
「ラオス(なんか)にいったい何があるんですか?」というヴェトナムの人の質問に対して僕は今のところ、まだ明確な答えを持たない。僕がラオスから持ち帰ったものといえば、ささやかな土産物のほかには、いくつかの光景の記憶だけだ。でもその風景には匂いがあり、音があり、肌触りがある。そこには特別な光があり、特別な風が吹いている。何かを口にする誰かの声が耳に残っている。その時の心の震えが思い出せる。それがただの写真とは違うところだ。それらの風景はそこにしかなかったものとして、僕の中に立体として今も残っているし、これから先もけっこう鮮やかに残り続けるだろう。
それらの風景が具体的に何かの役に立つことになるのか、ならないのか、それはまだわからない。結局のことろたいした役には立たないまま、ただの思い出として終わってしまうのかもしれない。しかしそもそも、それが旅というものではないか。それが人生というものではないか。
「大いなるメコン川の畔で ルアンプラバン(ラオス)」より
★かつて生活した場所を訪れる旅
かつて住民の一人として日々の生活を送った場所を、しばしの歳月を経たあとに旅行者として訪れるのは、なかなか悪くないものだ。そこにはあなたの何年かぶんの人生が、切り取られて保存されている。潮の引いた砂浜についたひとつながりの足跡のように、くっきりと。
そこで起こったこと、見聞きしたこと、もちろんいくつかの面白くないこと、悲しいこともあったかもしれない。しかし良きことも、それほど好ましいとはいえないことも、すべては時間というソフトな包装紙にくるまれ、あなたの意識の引き出しの中に、香り袋とともにしまい込まれている。
「野球と鯨とドーナッツ ボストン2」より
感想など
以上、今回は村上春樹さんが”旅”というものについて、ご自身の感じていることを語っている部分を中心に紹介してみました。
(村上節を紹介するために”「すかすか」の国”についての部分もピックアップしてみました。)
本書には10本の紀行文が掲載されています。
これらは日本航空の機内誌「アゴラ」など、幾つかの雑誌に発表されたもので、一冊の紀行文集にまとめたものが本書です。
さて、村上春樹さんといえば、『ノルウェーの森』や『1Q84』など、長編小説作家のイメージが強いと思います。
確かに素晴らしい作品がたくさんありますが、実は僕は村上春樹さんの小説より紀行文のほうが好き。
村上春樹さんは紀行文の名手だと思っています。
独特な魅力があって、例えばキリシア旅行の
では、粗食や天候に文句たらたら。
シドニー・オリンピックの取材のために訪れたオーストラリア紀行文
では、オリンピックが嫌いなのに取材を続けることに文句たらたら。
と言った具合で、かなりネガティブな発言が続きます。
あまりにネガティブな発言が続くので「それなら行かなきゃいいのに!」と突っ込んでしまいますが、不思議と面白く、ユーモラスに感じて引き込まれてしまうのが村上紀行文の不思議な魅力でした。
なんというか、斜に構えているというか。
しかし本書はちょっと違っています。
人間が丸くなったという感じ。
昔、村上春樹さんは外国でロングステイしながら長編小説を書いていたライフスタイルを繰り返していた時期があり、本書はその以前住んでいた場所を再訪問して、これまでの作家人生を振り返るといった趣があります。
そのためでしょうか、老境に入った人が穏やかに「あの頃はああだったなぁ」なんて懐かしむテイストが、全体に流れていて、とっても穏やか。
これまでの紀行文とはひと味違ったものとなっています。
しかし、作家も人間ですから、年齢とともに円熟していくもの。
ギリシア紀行のような、身体を張った紀行文は今後は登場しないかもしれません。
ただ、少し残念だったのは、せっかくかつて小説を執筆していた場所を再訪しているのに、その地での作品に関わるエピソードがほとんど登場しなかったこと。
例えば、ミコノス島に滞在している時に『ノルウェーの森』が書かれるのですが、
「ミコノス・バー」で働いていた女性はとてもチャーミングな皺を寄せて笑う人で、僕はこの人をーーーというかその皺の具合をーーーイメージして『ノルウェーの森』のレイコさんという人物を描いた。
目次
チャールズ河畔の小径 ボストン1
緑の苔と温泉のあるところ アイスランド
おいしいものが食べたい オレゴン州ポートランド メイン州ポートランド
懐かしいふたつの島で ミコノス島 スペッツェス島
もしタイムマシーンがあったなら ニューヨークのジャズ・クラブ
シベリウスとカウリスマキを訪ねて フィンランド
大いなるメコン川の畔で ルアンプラバン(ラオス)
野球と鯨とドーナッツ ボストン2
白い道と赤ワイン トスカナ(イタリア)
僧籍からくまモンまで 熊本県(日本)
関連書籍
おすすめ村上紀行文を2冊紹介。
上記、紹介した以外ではこちらが一押し。
そして、さぬきうどんツアーが掲載されているこちらの本
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