本を耳で読む Amazon Audible 30日間無料体験キャンペーン実施中

民主主義の構造的欠陥をあきらかにする【書評】塩野 七生(著)『日本人へ 危機からの脱出篇』 文藝春秋

おはようございます、フィリピンの台風の被害に心痛める一龍(@ichiryuu)です。

今日は塩野七生さんの『日本人へ』シリーズの最新刊をご紹介。
予期せぬ危機からいかに脱出するか、歴史に精通し、グローバルの視点で日本を見ることができる著者だけに語れるヒントが満載の珠玉の一冊です。

 

【ポイント&レバレッジメモ】

★政治家の役割はニーズを解消すること

 政治家たちはまるで口をそろえたかのように、国民の要望に応えるのがわれわれの任務だと言う。そしてそれを、これこそ民主的とでもいうように、マスメディアも賞賛する。
 だが私は、国民のニーズを汲み上げるという言葉を聴くたびに、それは、彼らの考えがはっきりしていない証拠だと思うことにしている。政治家の役割は、ニーズを汲み上げることではない。ニーズを解消することのほうにある。この問題はこうやると解決すると、明言することにあるのだ。そして、この線で進めた結果が解消に近づいているか、それとも見込みないか、の判断は国民が選挙で示す。こうしてこそ主権在民であり、民主政治と
言えるのだと思う。

★独立国家としてまことに恥ずかしい

 イタリアに米軍の基地があるのは、アメリカとイタリアが同盟関係にあるからだ。ただし、イタリアは自国の軍隊の存在をきちんと認知しているので、米軍基地がある理由を、他国からの攻撃に対する抑止力、などという、独立国としてはまことに恥ずかしいことに置いていない。だから、その基地から米軍が、イラクやアフガニスタンに派遣されても、野党もマスコミも追求しないのである。そして、これが最も大切なことだが、イタリアは毎年一万人もの兵士を、多国籍軍の一部として海外に派兵しており、つい最近もアフガニスタンで死傷者を出した。 
 このイタリアとイタリア内にある米軍基地の関係がほぼ対等であるのに対して、日本と日本にある米軍基地の関係が対等でないのは、われわれは自国の安全保障を、基地があるから抑止力も側らくという「思いこみ」に寄りかかって、アメリカにまかせっきりにしているからであり、また、憲法を盾にして多国籍軍にも参加しないからである。

★トップが機能していない

 日本に滞在中に痛感したのは、日本人は自信を失っていて、リーダーたちは誰一人、この日本人に自信を取りもどさせるための言葉を発しないことだった。それでいながら一方では、明るいニュースに事欠くことはなかったのだ。<中略>
 日本人は、個々別々ならば、相当な力を持っているのである。ただし、それらをまとめ継続させることで一層の活用につなげるトップが機能していないだけなのだ。

★なぜ人々は、マスコミから離れるのか

 政府となれば誰が率いていようと反対し、権力は、何であろうと悪と極めつけ、政治には無関係の私生活までほじくり出してはスキャンダルとわめき立てる。これこそ行かず後家の意地悪で、なぜなら、自分は手にしたことはない権力を持っている人に対しての、姑息で浅はかで程度の低い羨望と嫉妬にすぎない。
 このような感情を公正・中立・客観性の衣で隠しただけの記事を、誰がおカネを払って買い、読むであろうか。テレビならば、切ってしまうだろう。そして、人々が読みも見もしなくなれば、広告だって離れていく。

★世界中が「中世」

 『ローマ人の物語』を書き続けている間頭からはなれなかった想いは、「勝って譲る」という、あの人々に一貫していた哲学だった。勝ちつづけながらも、一方では譲りつづけたのである。ローマが主導して成り立った国際秩序でもある「パクス・ロマーナ」(ローマの平和)とは、この哲学の成果であった。
 結局は譲るのだったら、始めから勝つこともないのに、と思われるかもしれない。だが、勝つことは必要なのだ。なぜなら、他の国々に、主導されることを納得させるためである。
 正しいことは言っても弱体な国に、どこが従いていくだろうか。理も、理になど耳を傾けたくない国にまで耳を傾けさせるには、何にしてもパワーが必要なのだ。<中略>
「中世」とは、理でもなく、理の結晶である法治でもなく、腕力だけがモノを言う世界であった。群雄割拠と言えば聴こえはよいが、実際は司令塔不在の時代であったのだ。この状態を現代風に言い換えれば、多極化の時代となる。

★顔に現れる「真・善・美」

 美型なのに醜く変わった人は批判するためだけに批判しているかのような人に多い。一方、同じく批判でも地方自治体の首長の政府批判は、責任のある立場だけに切羽つまっていて、それゆえに醜悪にはならない。昔は、大人になったら自分の顔に責任をもて、と言っていたが、今でもそれは変わらないのではないだろうか。福島と聴くだけでヒステリーを起す人々の顔は、醜く変わっているにちがいない。日本人を、その人の話に耳を傾け
るより前に、イイ顔、醜悪な顔、に分けてみるのはどうだろう。

★「がんばろう日本」はどこに行った?

 まるで今の日本は、「抗議」と「不安」だけが肩で風切っているようだ。それをささえているのが、自分の考えることだけが正義であるという思いこみ。この種の思いこみくらい、互いに力を合わせないと機能していかない住民共同体にとっての害毒はない。「住民共同体」の語源はラテン語のレス・プブリカで、日本では普通、「国家」と訳されている。
 各地で起っている放射能騒わぎに至っては、醜悪以外の何ものでもない。「おしゃもじ」が「放射能測定器」に変わった、一昔前の主婦連を思い出してしまった。このような母親を見ながら子供は健全に育つと思っているのだろうか。

★リーダーと権力者とはどこが違うのか

 それに私は、津波に襲われたときにどこに逃げるかを即座に判断してそこに人々を誘導できるのはリーダー、津波が去った後の再興を考えそれを強力に進めるのは、リーダーであることを自覚した権力者、と答えた。つまり、権力自体は悪ではないのだ。リーダーを自覚できない人間が権力者であった場合にのみ、権力は悪に変わる。ゆえに、われわれにとっての不幸があるとすれば、それはリーダーであることを忘れてしまった人を、権力者に持ってしまった場合である。

★なぜ衆愚政治に陥るのか

 第一に衆愚政とは、有権者(アテネの場合はアテネ市民権所有者)の一人一人が以前よりは愚かになったがゆえに生じた現象ではなく、かえって有権者の一人一人が以前よりは声を高くあげ始めた結果ではなかったか、ということ。それに加えて、これら多種多様になること必定の民意を整理し、このうちのどれが最優先事項かを見きわめ、何ゆえにこれが最優先かを有権者たちに説得した後に実行するという、冷徹で勇気ある指導者を欠いて
いたのではないか、と。

【感想など】
◆日本から距離を置き歴史的知識をもとに冷静に分析できる希有な作家
『ローマ人の物語』でおなじみ、ヨーロッパの歴史を題材に多数の本を出されている、ワタクシの大好きな作家さんの一人、塩野七生さんの新刊です。

本書は以前も紹介したシリーズの3冊目。
今回は文芸春秋に掲載された連載の2010年5月号〜13年10月号からまとめられたものです。

この期間と言えば、民主党鳩山内閣から菅内閣に政権が移行(2010年6月)、次の年の3月に東日本大震災、そして歴史的大勝で第2次安倍内閣が発足(2012年12月)という期間。

政治的混迷と未曾有鵜の災害、そして政権交代と言う激動の時期です。

また、対照的にイタリアではモンティ内閣(2011年11月ー2012年12月)が、政治家が入閣しない内閣を率いて、これまで政治家ができなかった超緊縮財政政策どんどんを実行するという時期でもありました。

モンティ内閣の賛否はともかく、かたや何も決められない政治家と進まない復興、かたや政治のプロではない集団がこれまでできなかった政策をどんどん実行に移すという姿を間近で見ていた著者だけに書ける内容の本書は、民主政治とは何なのかという根本問題を突きつけるものとなっています。

しかもその分析のベースは歴史、特に民主政治も皇帝政治も経験した古代ローマや、さらにそのオリジナルであるギリシアにあります。

本書の魅力は、1年の半分をローマで過ごし、日本から距離を置いて冷静に、歴史的知識をベースに分析できる客観性と鋭さにあります。

◆民主政治は本当に優れた制度なのか
阪神淡路大震災のときもそうでしたが、東日本大震災のような未曾有な災害や国難が襲ったとき、本当に民主主義というのは優れた制度なのか?と疑問を持ってしまいます。

特に東日本大震災後の「何も決まらない状態」は本当に酷かった。

ワタクシはけっして民主主義を否定する者ではありません。
絶対王政のような誰か一人に権力が集中するような政治機構は嫌です。

政策決定の過程に直接的間接的に参加できる余地のある民主主義は、政治形態としてベストではないけれど、ベターではあると思っています。

しかし、それはあくまで平時の話。
東日本大震災後ほどそれを痛感したことはありませんでした。
制度的に非常時に対応するのは民主政治は向いていないのだと。

そこで感嘆するのは古代ローマの民主政治です。
平時は元老院が最高意思決定機関なのですが、危機的な状況(ほとんどの場合、外敵の侵入)になると期限つきの独裁官を選出して対応します。

民主政治の制度上の限界を、ちゃんと制度を設けて対応していたのですね。

日本はこういう非常事態を想定した意思決定上のシステムがしっかり構築されていないために、「想定外」を言い訳にして、何も決まらない状態が続くのです。

◆民主政治の陥りやすい罠
さて、平時でも民主政治は機能不全に陥ることがあります。

それについて著者は

 民主政とは、選挙で五○パーセント・プラス一票を狸得したほうが政策を実現し、任期終了期には再び民意を間うて、それが否と出れば政権は反対党に移る、ということで成り立つ制度である。ところが、こうも簡単なことが実際はなかなか簡単には行かない。
 その理由の第一は、与党に反対するのは野党とはかぎらず、与党内野党という存在もあること。また、連立しなければならない場合は、小党であろうとその党の意見も容れざるをえないこと。そのうえ、本来ならば過半数をとったのだからそれで突き進んでいいはずなのに、なぜか有識者とかマスコミが、少数意見も尊重すべしとやかましく言い立てる。
 こうなると政権党といえども次の選挙が気になり、おかげでこれらを無視できないのだが、ゆえにあちこち調整し落としどころを探ったあげくに実現した政策は妥協の産物と化し、有権者たちの眼には、政治家たちは何もやっていないではないか、と映ってしまうことになる。調整とはほんとにいやな言葉だ、と思うくらいである。

と言及されています。

100%みんなが満足できる政策なんてものは世の中に存在しません。
著者の言うとおり、過半数をとった政策を実現するのが筋と言うもの。

しかし「少数意見を大切にしましょう」とか、選挙制度においても「小選挙区は死票が多くなり少数意見が国会に届かない」などと言って批判される空気が日本にはあります。

基本的人権に関係する部分においては少数意見も大切にされるべきでしょうが、国家の大計に関わる部分では、マスコミを恐れず冷徹に実行できる政治家に出てきてほしいものですが・・・。

政治家も人の子、オクタビアヌスのような傑物はそうそう出現するはずもないです。

◆衆愚政治に陥るのはなぜ?
となると、やはりキーとなるのは我々国民のあり方。

実は本書でワタクシが一番引っかかったのがこの一節。

衆愚政とは、有権者(アテネの場合はアテネ市民権所有者)の一人一人が以前よりは愚かになったがゆえに生じた現象ではなく、かえって有権者の一人一人が以前よりは声を高くあげ始めた結果ではなかったか

古代ギリシャでは民主政治が一旦完成したものの、最後には衆愚政治に陥りました。
その原因は何なのか?

著者は有権者の一人一人の発言力が高くなったからではないかと推測しています。

今の日本、いや世界中そうですが、インターネットやSNSの発展で、我々有権者は発言する方法、考えを発信する方法を一人一人が持ってしまいました。

これは素晴らしいことであると思いますが、一方では民主政治にとって危険なことなのかもしれません。

政治家を批判するのはマスコミの専売特許でしたが、それにプラスして一般国民も直接政治家に物申せる時代となってしまいました。

もちろん逆に政治家も国民に直接メッセージを伝えられる時代となったわけですが・・・。
政治家受難の時代なのかもしれません。

本書は「危機からの脱出篇」がサブテーマです。
著者の考える危機対応が随所に見られます。

民主政治の構造的欠陥ばかり嘆いていても仕方ありません。
構造的欠陥を変えていくのも我々有権者の務めであり、古代のローマ人がうまくシステムを構築できたのですから現代人の我々もできるはずです。

そのヒントを本書は与えてくれます。
(特に政治家の皆さん、ぜひお読みください。あなたたちがやるべきことの方向を示してくれています。)

【関連書籍】

 

なぜリスクをとるリーダーが出ないのか―危機の時代こそ歴史と向き合え!21世紀の「考えるヒント」40本。

 

 

www.s-ichiryuu.com

 

 

夢の内閣をつくってみた。大臣たちは、私が慣れ親しんできたローマの皇帝にする―治者とは?戦略とは何か?現代日本が突き当たる問題の答えは、歴史が雄弁に物語っている。大好評『日本人へ リーダー篇』につづく21世紀の「考えるヒント」。

 

www.s-ichiryuu.com

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA