おはようございます、目の前のことに常に集中しようとしていますがついついネットサーフィンしてしまう一龍(@ichiryuu)です。
さて今日は、アルボムッレ・スマナサーラさんの本をご紹介。
上座部仏教の長老である氏が、仏教の教えをもとに説く大きな喪失感からのこころの復興とはいかなるものか。
そこにはより良い人生のためのヒントがちりばめられています。
【目次】
はじめに
第1章 なぜ、仏教は心を重視するのか?
第2章 なぜ、心は壊れるのか?
第3章 「喪失感」を消す方法
第4章 「孤独感」を消す方法
第5章 仏教が教える「生と死」
第6章 明るい心をつくる
おわりに
【ポイント&レバレッジメモ】
★私たちは「心の奴隷」である
お釈迦さまは、あるとき、ひとりの村人からこう聞かれました。
「この世を支配している主人は誰ですか?」
この問いに対してお釈迦さまの答えは明確でした
「チッテーナ ニーヤティ ローコー(Cittena niyati loko)」
チッテーナは「心によって」という意味。
ニーャティは「導かれる」。
ローコーは「衆生(世界)」と。
つまり、「この世は心によって導かれている」ということです。私たちのすべては、心によって握られている。言ってみれば、私たちは心の奴隷なのです。
★エゴを持つと限界が見えなくなる
自分とは違う法則で動いている世界についていろいろ学ぶのに、自我は著しく邪魔をします。
何か学びたいと思ったら、自我を制御していくことが重要です。自我を制御すればするほど、学びのスピードは速くなります。
自我を抑制して世の中のことを学んでいると、「ここまでなら管理できるけど、これは管理できない」という、自分の限界がよくわかってきます。
多くの人は、その限界がわからずに、「自分はなんでもできる」と、とんでもない勘違いをします。
★怒りはすべてを破壊する
怒りという感情は、なんとしても捨て去らなければなりません。それは、破壊を呼び込ふます。
怒りの感情が破壊する対象は二つあって、ひとつは自分が怒りを向けている相手。怒りが大きければ、本当に相手を殺してしまうことだってある。
もうひとつは自分自身。怒りは、怒っている本人をも破壊するのです。
お釈迦さまは、こうおっしゃっています。
「他人に火の玉を投げて怪我をさせようと考え、火の玉をつかんだら、相手より先に自分が燃えてしまうのです」
つまり、怒ることは「自爆」なのです。怒れば怒るほど、その爆薬は増えていって、最後には木っ端微塵になってしまいます。
★執着を消せば、すべてがうまくいく
私は、子育てをしている人によく言います。
「子どもを慈しんで愛情をかけて育てるのは素晴らしいが、執着してはいけません」子どもに執着しないということは、愛情をかけないことでも、子どもを見捨てるこでもありません。執着と愛情を混同してはいけません。
多くの親は、子どもに自分が思っているように育ってほしいと考えます。それは、愛情のつもりでも執着なのです。<中略>
たとえ子どもであっても、別の人格です。人それぞれの感覚があり、それを管理することは誰にもできません。
しかし、子どもに執着している親は、無理にそれをしようとして、思い通りにならないと悲しむのです。
本来、子育てはとても楽しいことです。子どもを大事に育てるだけで十分に楽しいのに、執着するから、子育ての地獄が始まります。
★パートナーを「友だち」と思う
婚相手を理解するためにいちばんいい方法は、相手を友だちだと思うことです。
「奥さん」だと思うから、その役割にばかりフォーカスしてしまい、料理が下手だと不満が出ます。
「ダンナ」だと思うから、弱気なことを言われると、「もっと、しっかりしてよ!」と怒りたくなります。
ここには、相手を理解しようという姿勢は見受けられません。<中略>
ところが、「こいつはただの友だちだ」と思ってしまえば、お互いに理解し、相手に合わせていくことが簡単になります。
あらゆる人間関係で、いちばんうまくいくのが友だちです。利害関係がなく、ただ仲がいいから一緒にいろいろなことをしている友だちは、ケンカもできるし、仲直りもできます。ときには厳しいことも頼める関係です。
夫婦は夫婦の関係でいいけれども、そこに友だち感覚があれば、なお強力な間柄となります。
★「孤独」は自分の心がつくる
寂しいと感じることがあるのは当たり前です。でも、そこにどっぷり浸かって、自分で孤独感を募らせてはいけません。
孤独だと本当に悩んでいる人たちは、生命力を失っている状態です。生命力のエネルギーが消えそうになっているのに、充電する場所が見つからないのです。
しかし、ひとりきりで生活しながらも、きちんと充電をしている人たちもまた、たくさんいることを思い出してください。<中略>
つまり、どんな孤独も、すべて自分がつくりだしているのです。
心さえ明るく持てば、そうした法則がすぐに見えてきます。
★「すべては無常である」の意味
お釈迦さまは「すへては無常である」と喝破しました。この世のすべては変化し続けており、変わらぬものなど、ひとつたりともないということです。
「生まれたならば死ぬ」というのは、私たちの体が変化するということです。それは、生から死にいきなり変化するのではなく、この一秒一秒の変化の先に死があるというだけのこと。死だけが特別な変化なのではありません。<中略>
だから、何かの変化を恐れるのは、まったく無知な態度と言えます。変化がなければ世の中は成り立ちません。
それに、無常だからこそ、私たちは頑張ることができます。頑張っても何も変わらないのであれば、頑張る意味がないではありませんか。
まずは、無常を理解し、歓迎しましょう。
★「生」と「死」は同じである
赤ちゃんが誕生すれば喜んでお祝いをし、誰かが死ねば悲しんでお葬式をします。誕生は素晴らしいものだけれども、死は忌承嫌うべきものだと思っているのです。
しかし、本当に死が悲しいものであるならば、子どもが生まれたときにも泣かなくてはなりません。
だって、生と死は同じことなのですから。
それに、人は生まれたからこそ死ぬのですから、死が忌み嫌うべきものであるとしたら、その原因をつくった生を、なぜ喜べるでしょうか。
生と死が同じだということは、頭の中ではわかっても、気持ちの部分ではなかなか受け入れにくいかもしれません。
しかし、知っておくだけでも違います。
★夫婦の思いやりは「無常」が生み出す
無常を理解している人は、毎日新しく、相手を思いやることができます。
自分も変化している。相手も変化している。二人の関係も変化している。
二人の関係は、知り合ったころのように熱烈なものではないけれども、だからといって、それはだらしなくなることとは違う。
そうした、変化に逆らわない形で、愛情表現ができます。
無常であるからこそ、人々は努力するし、成長します。無常であるからこそ、夫婦をはじめとした人間関係も楽しいのです。
★信頼できない「明日」、戻れない「過去」を考えない
人生とは、いま、この一秒一秒で何をするかがすべてなのです。この一秒一秒に関して、勝ち負けなど存在するはずがありません。
しいて言うならば、この一秒一秒の大切さに気づき、一秒一秒を真剣に生きている人こそ、人生の勝ち組です。
本当はつらいことなどない「いま」を、過去のあれこれを思い出してはつらいものにしてしまうのは、とても不幸なことです。
過去も未来も幻覚です。過去は戻らないし、明日は信頼できない。これが事実なのいまを、もっと大事に生きてください。
★幸せとは「昨日よりよい今日」の積み重ねである
いまをしっかり生きていない人が、成功することもありません。
10年後の計画を立てて、本当に成功した人たちは、10年前のその日から、その日その日にやるべきことを、きちんとやってきただけなのです。
仕事であろうと、日々の生活であろうと、大げさなことは必要ありません。
「昨日より今日は、ちょっとマシな人間になりましょうよ」
こんな気持ちで一日を生きればいいのです。その結果として成長があります。
【感想など】
◆こころの復興は自分次第
著者のアルボムッレ・スマナサーラさんはスリランカ出身の上座部仏教長老。
来日して30年以上、仏教や瞑想を伝導している方です。
また、著書も多数出されており、
などのベストセラーがあるのでご存知の方も多いともいます。
今回ご紹介する本書は、『こころの復興』のタイトルからもわかるように、東日本大震災の復興をきっかけに書かれたもので、「こころ」のあり様、特に喪失感にどう対処するかをテーマに書かれたものです。
あの地震とそれにともなう原発事故で、家や土地、仕事、そしてかけがえのない大切な人を亡くしてしまった方々。
その心は完全に癒えることはないでしょう。
埋めようのない大きな喪失感は生涯消えることはないと思います。
ただ、生き残った者はこれから先も生きていかなければなりません。
その時にこの本が、心の支えとなり、すこしでも新たな人生の道しるべとなればと思います。
あなたの心を復興するために必要なのは、お金でもものでもありません。もっと言うなら、人々からの愛でもありません。あなたの心を真に復興できるのは、あなたの心そのものしかないということを忘れなしでください。でもだからこそ、それは可能なのです。
物質的な復興はいろいろな制限がありますが、心の復興は自分次第なのです。
◆無常であること
「諸行無常」
本書の主張の根幹はこの一言に尽きます。
「すべてのものは変わり続ける」と、お釈迦様は喝破されました。
そして多くの悲しみや苦しみが、宇宙の真理が「無常」であるのに、人々は変化しないことを望むために起きると。
出逢いがあれば別れがある。
誕生の先には死が待っている。
何気ない日常生活ですら、まったく同じことの繰り返しは存在しません。
真理に反して「変わらないこと」を願っても、その願いはかないません。
ならばまずは「無常」を受け入れましょう。
「無常」は「無情」ではなく、我々が前向きに生きていくために必要な精神基盤です。
といっても、難しいですけどね。
ワタクシは「変化しつづける人生」を望んで生きていますが、まだまだ徹底できていないな、「無常」を本当に受け入れていないなと本書を読んで感じました。
というのは、今回本書を読んでいて感嘆した部分が、「無常」をベースにした人間関係の構築でした。
夫婦や親子の関係も、そのベースには「無常」が存在する。
それを理解した上で付き合っていくとうまくいく。
これは目からウロコでした。
親子の関係は、いずれ子離れ、親離れの時が来ることを理解しているつもりです。
でも、どうしても子どもを自分の描く理想像に当てはめようとしてしまいます。
そしてそれは夫婦間でも起こります。
でも考えてみれば、妻も子どもも一個の別人格です。
さらにお互い変わり続けます。
変化を喜び、受容するべきなのですよね。
そして、別れも。
◆今を生きる
しかし、「無常」というのは理解していても、実際の感情はやはりコントロールが難しいです。
実は先日、職場の同僚が亡くなりました。
家で突然倒れて、そのまま逝ってしまったのです。
まだ40代。
中学生の子どもを残してです。
例えば、癌などの病気であれば、やりきれない気持ちではありますが、ある程度、本人も周りの人間も心の準備ができます。
しかし、あまりにも突然の死は、家族はもちろんですが、同僚の我々も喪失感はとてつもなく大きく、こころの整理はつきません。
人間生きている以上、必ずいつか死にます。
そして死は突然訪れるかもしれません。
人間は過去を懐かしむこともできますし、未来を想像することもできます。
でも、過去はもどってきませんし、未来はそこまで生きているかどうかも定かではありません。
結局のところ我々ができるのは”今を真剣に生きる”ことだけだと同僚の死から思うようになりました。
本書にもそういう一節が登場します。
どう「心」を保って、今を真剣に生きるのか。
そして、いずれ別れが来る周りの人たちとどう接していくのか。
人生でいちばん大切で、すごく身近なのに忘れてしまっているテーマを、思い起こしてくれる一冊です。
本書はイースト・プレス、編集者の畑様より献本していただきました。
ありがとうございました。
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